聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の12章(解き明かし)

2020年7月24日

 

『 マルコによる福音書の12章(解き明かし) 』

 

(それでは12章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・12章の1~12節より

『イエスは、たとえで彼らに(=これはおもに祭司長や律法学者、長老たちに向けて)話し始められた。「ある人(=これは父なる神のことです)がぶどう園(=イスラエルのこと)を作り、垣(かき)を巡らし、搾(しぼ)り場を掘り、見張りのやぐら(=見張り台)を立て、これを農夫たち(=この農夫たちが、祭司長や律法学者、長老たちのこと)に貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕(しもべ=これは神の使者である預言者のこと)を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕(=他の預言者)を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱(ぶじょく)した。更に、もう一人(=もう一人の預言者)を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕(=多くの預言者)を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された(=これがこれまでのイスラエルの歩みを示しています。ユダヤ人の指導者たちは、それぞれの時代において、つねに預言者を迫害してきたのです)。まだ一人、愛する息子がいた(=この息子が御子であるキリストのことです)。『わたしの息子なら敬(うやま)ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取(あとと)りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産(=これはぶどう園のことであり、イスラエルのことです)は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった(=これは祭司長や律法学者、長老たちがキリストを罪人に仕立てあげ、死刑に処されるように仕向けさせたことを意味しています。実際キリストは十字架の刑によって殺されてしまいました)。さて、このぶどう園の主人は(=父なる神は)、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない(=これはぶどう園にもどってきた神が、農夫たちを裁き、ほかの信仰のあるユダヤ人にぶどう園(=イスラエル)をあたえるということ。なおこれはキリストが再臨されたあとの、千年王国において成就します。というのも、現在のユダヤ人の多くは、いまもキリストへの信仰をもっていないので、このぶどう園を引き継げる状況にありません。それは艱難期(=世の終末)が進むにつれて、彼らがキリストに助けを乞い、彼をメシアだと認めるようになってから成就することなのです。なおこのときには世界中の信者たちも、神の国(=千年王国)に招かれることになります)。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石(すみのおやいし=これは家を建てる際に、最も重要となる石のことです。この石をとりのぞくと、それだけで家がくずれたりすることになります)となった(=これは詩編118-22の言葉です。その意味は、ユダヤ人たちが家を建てる(=国を建てていく)際に、邪魔だと思って捨てた石が、実は一番重要な石だったということであり、その捨てた石こそが、のちに千年王国を統治するキリストだったということです。そのキリストを、彼らはよりによって十字架の刑に仕向けて、殺してしまったのです)。これは、主(=神)がなさったことで、わたしたちの目には(=わたしたち人間の目には)不思議に見える(=なぜ不思議に見えるかというと、御子であるキリストが一度はこうして捨てられて、殺される定めにあったということを、ほかならぬ神がお決めになっていたからです)。』」彼らは(=祭司長や律法学者、長老たちは)、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた(=群衆の支持を得ているのはキリストであるため、そのキリストを捕らえれば、群衆の反感をかうことになります)。それで、イエスをその場に残して立ち去った』

 

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・マルコによる福音書・12章の13~17節より

『さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥(おとしい)れようとして、ファリサイ派(=キリストを敵視しているユダヤ教の一派)やヘロデ派(=同じようにキリストを敵視しているヘロデ王の支持派)の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです(=これは要するにおだてて言っているだけです)。ところで、皇帝(=これはローマ帝国の皇帝のこと。当時のエルサレムローマ帝国支配下にありました)に税金を納めるのは、律法に(=神の教えに)適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた(=実は彼らのこの問いは、皇帝に納めるべきと答えれば、ユダヤ人からの反感をかい、皇帝に納めるべきではないと答えれば、ローマの法律に違反するという、どちらで答えるにしてもキリストをおとしいれるものになっていました)。「なぜ、わたしを試(ため)そうとするのか。デナリオン銀貨(=これは皇帝の肖像がほられているローマの銀貨のことです。当時のユダヤ人は、この偶像崇拝を意味する銀貨によってローマに税金を納めていたのです)を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘(めい)か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った(=なぜ彼らがおどろいているかというと、この答えようがなかったはずの問いに、このように返す言葉がないほどの返答をされたためです。その理由としては、そもそもこの銀貨には偶像がほられているため、この銀貨を所有していること自体が神の教えに反するものになっています。そこでそうした銀貨は、もともとの持ち主である皇帝に返してしまいなさいと述べておられるのです。そうすることで、それは結果的にローマに税金を納めることにもなり、ローマとの軋轢(あつれき)を生むことはありません。さらにここでのキリストは、神のものは神に返しなさい、と述べることで、神の所有物であるあなたがた自身を、神へとささげてこころを尽くしなさい、とつたえられています。このようにして銀貨などでは到底比較できない神のことを対比させることで、人々のこころを神へと立ちかえらせようとさえしておられるのです。これには彼らも、言葉一つ返せなかったものと思います)』

 

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・マルコによる福音書・12章の18~27節より

『復活(=死から甦ること)はないと言っているサドカイ派(=ユダヤ教の一派)の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセ(=エジプトの奴隷だったイスラエルの民を、率(ひき)いた人物)はわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時(=神の国に入るために死から甦るとき)、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁(とつ)ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴(しば=山などに生えている雑多な木のこと)』の個所で(=これは出エジプト記3章のこと)、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている(=ここでは、復活することを信じていないサドカイ派に向かって、キリストが言葉を返されています。その内容は、一見 “復活” とは関係ないことのように思えますが、キリストがアブラハム(=アブラハムとは、イスラエル民族の祖(そ)と言われている人物です(創世記17-4~6))やイサク(=アブラハムの子)、ヤコブ(=イサクの子)といった名を挙げているのは、彼らが今後神によって復活させられることが確約しているからです。彼らはもちろん現在は死んでしまっていますが、この彼らには神から “永久にカナンの土地(=これは地中海とヨルダン川死海にはさまれた地域のことです)があたえられる” と約束されています(=創世記13-14~17)。しかしこれは現在にいたってもまだ成就されていませんので、この約束が果たされるためには、彼らは死から甦る必要があるのです。この約束が果たされることを知っているキリストは、それゆえに彼らを死んだ者としてではなく、いまも生きている者として、こう語られたのだと思います(=そもそも人間の死とは、魂と体が分離することであって、魂は決して消滅することなく、いまも生きているのです。コリント二:5-8~9、ルカ16-22~23)。これに対しサドカイ派の人々は、やはり反論一つできなかったものと思います。聖書の言葉を信じていなかったことを、彼ら自身がつきつけられるかたちになったからです)」』

 

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・マルコによる福音書・12章の28~34節より

『彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟(おきて)のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった』

 

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・マルコによる福音書・12章の35~37節より

『イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか(=これは旧約聖書で、ダビデの子孫からメシアが誕生すると預言されているため、人々のあいだでこう言われていました(サムエル記 下7-8~16)。そのため、メシアはダビデの子だ、というのはまちがいではありません。事実、キリストは処女であるマリアからお生まれになりましたが、法律上はダビデの子孫なのです(マタイ1-1~17)。ただ、ここでキリストが問題にしているのは、どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子であるという、メシアの人間としての側面にしか目を向けないのか、ということなのだと思います。キリストには数々の奇跡をおこなってきた神としての側面もありますので、どうしてこの神としての側面に目を向けようとしないのか、という意味が、この問いかけにはこめられているのです)。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は(=父なる神は)、わたしの主に(=メシアであるキリストに)お告げになった。「わたしの右の座に着きなさい(=これは天の御座(みざ)のことで、十字架から復活したキリストは、父からのご命令のとおりに、現在この座についておられます)。わたしがあなたの敵(=サタン)を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と(=神がキリストの敵、サタンを底なしの淵(ふち)に封印する時期がくるまで、天の御座に着いていなさいということ(詩編110-1)。要するにこれはキリストが再臨するときのことを指しています)。』このようにダビデ自身がメシアを主(=わたしの主)と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか(=ダビデは、自分が生きているときから、つまりまだ子孫をもたないうちから、メシアがすでに生きておられるのを知っていました。ですから、メシアがダビデの子という発想の中だけにとどまってしまうことは、誤りであるのです。たしかにキリストは、人間としてこの世に降り立つために、ダビデの子孫としてお生まれになりました。しかしキリストは、それと同時に神でもあるのです。この視点でメシアを見ることのできない者たちは、とても重要な真理を見落としてしまっているのです。ここでのキリストが問いかけているのは、なぜメシアが、ダビデの子孫(=人間)でありながら神でもあることに気づかないのか、ということにあるのだと思います)。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた』

 

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・マルコによる福音書・12章の38~40節より

『イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者(=律法を説く身にありながら、それらを歪(ゆが)めて広めている者たち)に気をつけなさい。彼らは、長い衣(ころも)をまとって歩き回ること(=律法学者としての地位を見せつけること)や、広場で挨拶されること、会堂では上席(じょうせき=上位とされる席)、宴会では上座(じょうざ=これも上位とされる席)に座ることを望み、また、やもめ(=夫のいない女、また夫を失った女のこと)の家を食い物にし(=献金させるなどして私欲を満たすために利用しているということ)、見せかけの長い祈り(=いつわりの祈り)をする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる(=それぞれの罪の度合いに応じた裁きが用意されているということです)」』

 

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・マルコによる福音書・12章の41~44節より

『イエスは賽銭箱(さいせんばこ)の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚(=ギリシアの通貨です。いまでいう80円程度)、すなわち一クァドランス(=ローマの通貨におきかえています)を入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである(=このやもめは、今日一日の生活費さえ惜しまずに、神へとささげています。それはたしかに裕福な者から見れば、少ない金額なのでしょうが、しかし神の目には、だれよりもたくさん入れた、と見なされているのです。これがわたしたちの神のご視点だということです)」』

 

(次回は13章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。

マルコによる福音書の11章(解き明かし)

2020年7月21日

 

『 マルコによる福音書の11章(解き明かし) 』

 

(それでは11章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・11章の1~11節より

『一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニア(=どちらも地名)にさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村(=おそらくベトファゲかベタニアのこと)へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる(=キリストはそこにろばがいることを見透かしておられます)。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入(い)り用(=必要)なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい(=これはメシアがろばに乗ってエルサレムに入ることが、旧約聖書で預言されているため、キリストがこう述べられています。ゼカリヤ9-9)。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた(=これは祭りに倣(なら)った行為であり、メシアに対しての喜びをあらわしています。レビ23-40)。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ(=以下に、民衆が叫んだ賛美がつづきます)。

「ホサナ(=訳としては、救い給(たま)え、という意味。これは詩編118-25~26にあるメシアの到来をまちわびていた民衆が、神をたたえて熱狂していると捉えるといいように思います)。主の名によって来られる方に(=神の権威によって来られるキリストに)、祝福があるように。我らの父ダビデ(=ダビデは神への信仰をもっていた古代イスラエルの王で、イスラエルを繁栄させた人物です)の来るべき国に、祝福があるように(=これは民衆が、これからキリストによってもたらされるであろう神の国を期待し、ダビデが治めていたころの強い国に、その想いを重ねています)。いと高きところにホサナ(=訳としては、天の高きところにお救いください、といったところでしょうか)」

こうして、イエスエルサレムに着いて、神殿(=神を礼拝するための建物)の境内(けいだい)に入り、辺りの様子を見て回った後(あと)、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた(=このようにエルサレムに入られたキリストは、もはやご自分がメシアであることを隠そうとはせず、民衆のメシアに対する賛美もやめさせようとはしませんでした。いよいよ十字架への時の進行を、だれもさまたげることはできないところまできたということなのだと思います)』

 

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・マルコによる福音書・11章の12~14節より

『翌日、一行がベタニアを出るとき(=再びエルサレムに向かうとき)、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである(=これは、ここでの “実” のない状態が、これから行くエルサレムの、とりわけ神殿での信仰が守られていない状態を暗示しているのだと思います(エレミヤ8-13)。その不信仰の様子が、次の15~19節につづられています)。イエスはその木に向かって、「今から後(のち)いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた(=キリストのこの言葉によって、この木は、明日の朝には枯れてしまうことになります。これはすなわち、信仰がすたれてしまったエルサレム神殿のゆくすえを示しているのだと思います。“実がない” という表現であらわされたエルサレム神殿は、この40年後(西暦70年)に、ローマ軍によって破壊されることになります。これによってエルサレム神殿は、もはや礼拝をささげる場ではなくなったのです)。弟子たちはこれを聞いていた』

 

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・マルコによる福音書・11章の15~19節より

『それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り(=まずエルサレム神殿の造りを大まかに説明しますと、奥から順に、祭司(=神殿の行事に関わる人)だけが入れる祭司の庭、ユダヤ人の一般男性が入れる男子の庭、ユダヤ人の一般女性が入れる婦人の庭、異邦人が入れる異邦人の庭というように分けられています。そしてここでいう “境内” とは、異邦人の庭のことを指していて、これより奥に立ち入ることのできない異邦人は、この場所で神に礼拝をささげていました)、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人(りょうがえにん)の台や鳩(はと)を売る者の腰掛けをひっくり返された(=ここでの両替人とは、礼拝におとずれた人々が使用している貨幣(かへい=お金)を、神にささげるための指定された貨幣に両替する人のことです。というのも通常の貨幣には、地位の高い者(=皇帝など)の肖像が彫りこまれていたため、それらは偶像崇拝にあたり、神殿内での使用がゆるされていませんでした。また鳩を売る者とは、神にいけにえとしてささげるための鳩を売っている人のことです。これらはある意味では、神殿をとりしきっているユダヤ人にとっては必要な商売でしたが、手数料などの利益を高く設定し、しかもそれをよりによって神への祈りをささげるための境内でおこなっていたのです。それゆえキリストは、場所をわきまえずに欲に目がくらんだ者たちへ、こうして怒りをあらわされているのです)。また、境内を通って物(=商品のことだと思います)を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか(=これはイザヤ56-7のことを指しています)。『わたしの家(=神の家であるエルサレム神殿)は、すべての国の(=世界中の)人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった(=祈りの場を商売で荒らしてしまった)。」祭司長たちや律法学者たちは(=ユダヤ人の指導者たちは)これを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀(はか)った(=くわだてた)。群衆が皆その教えに打たれていたので(=群衆が皆、キリストの教えにこころを打たれていたので)、彼らはイエスを恐れたからである(=ユダヤ人の指導者たちは、キリストが群衆からの支持を得ているので、自分たちの地位や立場があやうくなるのではないかと恐れています)。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた』

 

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・マルコによる福音書・11章の20~26節より

『翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た(=これは信仰のないエルサレム神殿の崩壊を、暗示しているのだと思います)。そこで、ペトロ(=十二人の弟子のうちの一人)は思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる(=これは、神への信仰があるならば、木を枯れさせることができるばかりでなく、山をも海に飛びこませられるということ。言いかえるなら、人生において不可能と思えることでも、神にこころから祈り求め、かつそれが御心(みこころ)に適っているならば、その不可能が可能なものになるということです。もちろんこの際に、山をどかされるのは、それを祈っている本人ではなく、神ということになります)。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既(すで)に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦(ゆる)してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」』

 

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・マルコによる福音書・11章の27~33節より

『一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老(=イスラエルの部族制度を仕切る者)たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなこと(=これは神殿内で彼らの商売道具をひっくり返したことなどを指しています)をしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか(=もちろんキリストに権威をあたえておられるのは、父なる神です)。」イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は(=ヨハネが民衆にさずけていた悔い改めの洗礼は)天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい(=ヨハネの洗礼は、もちろん神からの使命にもとづいていました。ですからこの問いには “天からのもの” と答えるのがただしいことになります)。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう(=彼らは、ヨハネを信じてなかったので、天からのものだ、と答えられる立場にありませんでした。なにより群衆がそのことを知っているので、“天からのもの” と答えた際には、すぐに否定されることになります)。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである(=彼らは、ヨハネをただの人と思っていたので、本来 “人からのものだ” と答えたいところです。しかし群衆は皆、ヨハネを本当の預言者(=天からのもの)と思っていたので、“人からのもの” と答えた際には、群衆からの反感をかってしまうことになります。もしこう答えようものなら、ただでさえキリストの到来に熱狂している群衆ですので、どんな怒りをあびせられるかわかりません。それゆえに彼らは、“人からのものだ” とも答えられない状況にあったのです)。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた(=彼らはどちらで答えても、自分たちが危険にさらされるので、わからない、と答えています)。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい(=このようにキリストは、これ以降もユダヤ人指導者をよせつけない言葉を語られていくことになります)」』

 

(次回は12章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。

マルコによる福音書の9章(解き明かし)

2020年7月14日

 

『 マルコによる福音書の9章(解き明かし) 』

 

(それでは9章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・9章の1節より

 

『また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には(=十二人の弟子たちの中には)、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる(=これは次の9章2~8節でふれますが、ペトロ、ヤコブヨハネの三人のことを指しています。彼らはこの六日後に、とある山でキリストの姿が、神の国の栄光につつまれるのを目撃することになります。またとくにこのうちのヨハネにいたっては、この何十年後かに、千年王国や、永遠の御国(みくに=神の国)の幻をキリストから見せられて、それを黙示録として書きのこすまでは、決して死ぬことがありませんでした(=黙示録21、22章)。なおこの弟子のヨハネは、洗礼者ヨハネとは別人になります)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の2~8節より

 

『六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブヨハネ(=弟子のうちの三人)だけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人(=布を漂白する職人)の腕も及ばぬほど白くなった(=この世のものではなく、神の国に属した白さだということ。キリストは、神の栄光の輝きにつつまれていました)。エリヤがモーセと共に現れて(=エリヤは旧約聖書を代表する預言者であり、モーセイスラエルの民をエジプトから救い、神のお告げに従って律法をのこした人物です)、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋(=ちょっとした幕屋(=礼拝所)のこと)を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである(=三人の弟子たちは、キリストの姿が変わり、死者であるはずのモーセと天に上げられたはずのエリヤ(列王記 下2-11~14)の姿を目の当たりにしたために、なにが起こっているのか理解できず、恐れをいだいていたということ)。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け(=これは天の父なる神の声です。キリストは愛する御子(みこ)であり、その彼の教えや言葉に耳を傾けなさいということ)。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた(=エリヤとモーセは消え失せ、キリストも元の姿にもどっていたということ)』

 

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・マルコによる福音書・9章の9~11節より

 

『一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子(=キリスト)が死者の中から復活するまでは(=十字架にかけられることになって、一度死に、そこから復活するまでは)、今見たことを(=キリストとモーセとエリヤの三人が、栄光の輝きにつつまれていた光景のことを)だれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた(=これはまだ人々に広める時ではないということ)。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った(=弟子たちは、キリストが死んだりすることなく神の国をもたらしてくれると思っているので、そのキリストが一度死に、復活するということの意味をわからずにいます。言いかえるなら、メシア(=救い主)であるキリストが、いまあるローマ支配の状況を打ちこわしもせずに、死ぬはずがないと信じられずにいるのです)。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた(=これは旧約聖書・マラキ書3章に、神の国がもたらされる前に、神がエリヤをあなたがたの前に遣わす、との預言があるため、こう尋ねています。彼らには、キリストが死から復活するということへの混乱に加え、このエリヤが遣わされる件もまだ成就してないではないかとの思いがあるのです)』

 

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・マルコによる福音書・9章の12~13節より

 

『イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする(=たしかに預言されているように、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。ここでの “元どおり” とは、キリストがあらわれる前に、前もってエリヤが、神から離れたユダヤ人のこころを、また神に向かわせ、信仰を回復させておくということ。この言葉自体は、マラキ書3-23~24からの引用で、これはキリストの再臨にまつわる預言になっています。ここはむずかしいので先に結論を述べておきますが、以下でのキリストは、この再臨の前にあらわれるエリヤに対して、初臨(しょりん)の前にあらわれた洗礼者ヨハネをかさねあわせて語られています。要は信じる者にとっては、エリヤと同等のはたらきをヨハネの中に見ることができ、ある意味 “エリヤが来る” という預言の成就を、ヨハネをとおして体験できるようになっていたということです。ですからあとはメシアの到来だけを、こころ待ちにしていた状態にあったとも言えるのです)。それなら、人の子(=キリスト)は苦しみを重ね、辱(はずかし)めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか(=キリストがあらわれるより先に、信仰が回復されて準備がととのっているはずなのに、それならなぜ、実際のキリストが拷問をうけ、裸(はだか)にされ、十字架にかけられることになるのか、と弟子たちに問いかけています。これはいまのわたしたちには、新約聖書があるので、わたしたちの罪の身代わりとしてこられた “初臨” と、悪を一掃(いっそう)するためにこられる “再臨” との区別がつきますが、当時の弟子たちにとっては、いまいるキリストがメシアとしての道をひたすすみ、このまま世を治めてくれるはずだと思いこんでいる背景があります。ですから彼らからすれば、この先、キリストが苦しむことになるという預言(=イザヤ53章など)への理解が、なかなかともなってこない状態にあるのです。こうして自分たちの目の前にメシアであるキリストがいるというのに、なぜそのキリストが苦しむことになるのか、またそれ以前に、そもそもエリヤもまだあらわれてないではないか、という疑問がぬぐえずにいるわけです)。しかし、言っておく。エリヤは来たが(=信じる者にとっては、エリヤと同等のはたらきをするヨハネが来たが)、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである(=旧約時代のエリヤは、神に仕えていましたが、人々は預言者を殺すなどして、彼をあしらいました(列王記 上19-10)。そしてヨハネも神に仕えていましたが、ヘロデ王の宴会(えんかい)の席で殺されました。これらの二つの出来事をかさねた言いまわしをすることで、理解の追いついてこない弟子たちに、もうすでにエリヤは来て、しかもあしらわれた(=殺された)のだ、ということをつたえておられます。しかしもちろんこれは、実際にエリヤが来たということではありません。エリヤの霊と力をやどしているヨハネが来たということであり、そのヨハネのはたらきが、とりわけ信じる者にとっては、再臨の前におとずれるエリヤと同等のものであったということです。ここでのキリストは、こうした意味をこめて語られていたものと思います。なおここのところはマタイ11-14、17-11~13、ルカ1-15~17、マラキ3-23~24なども参照してください)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の14~29節より

 

『一同が(=キリストとペトロ、ヤコブヨハネが)ほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊(=悪霊)に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか(=だれひとりこの子のことや、悪霊を追いだすことについて、神へと目を向けて祈ることをせず、そればかりか議論までしていた状況をなげいておられます。そしてこうした信仰のなさが、キリストが到来してくださっているにもかかわらず、いたるところで見られた時代だということ)。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに(=あなたがたの信仰のなさに。あるいは信仰のうすさに)我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた(=悪霊は、このように一瞬でキリストが神であるのを見抜きます)。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました(=自殺させるような行動にかりたてていたということだと思います)。おできになるなら、わたしどもを憐(あわ)れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください(=父親は、自分に信仰がなかったのをみとめた上で、これからは信じますと助けを求めています)。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚(けが)れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ(=祈りをとおして、じかに神に依り頼(よりたの)まなければ)決して追い出すことはできないのだ」と言われた』

 

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・マルコによる福音書・9章の30~32節より

『一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである(=キリストは、ご自身がメシアであることも、いまは口止めされていました(マルコ8-29~30)。そしてこれに加え、ご自身が一度死に、そして三日目に復活するということも、口止めされていたものと思います。こうした神のご計画の核心にふれるものについては、まだ人々に広めるときではないと判断されていたということです。実際いまはローマの支配下にあり、またファリサイ派(=ユダヤ教の一派)からも命を狙われていました(マルコ3-6)。こうした状況において、ご自身が救世主であるとのうわさが飛び交うことは、さけるべきことだったのだと思います。キリストはなににもまして、神のご計画だけは確実にやりとげる必要があったのです)。弟子たちはこの言葉が分からなかったが(=キリストが一度死に、そこから三日目に復活するということの意味がわからなかったが)、怖くて尋ねられなかった(=彼らにとってキリストはユダヤの王であり、このキリストこそが、ローマ支配の現状を打ちこわし、神の国を治めるべきメシアであるのです。そのメシアが死ぬことなどあってはならず、彼らは真相を知るのが怖くなっていたのだと思います)』

 

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・マルコによる福音書・9章の33~37節より

 

『一行はカファルナウム(=ガリラヤ湖の北西の岸にある町)に来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉(えら)いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者(=神の国でより偉くなりたい者)は、すべての人の後になり(=この地上にいるあいだ、他人よりも自分を低くして)、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである(=キリストの名(=ご性質)を敬(うやま)っているがゆえに、このような子供をわけへだてなく受け入れられる者は、キリストをこころから受け入れているのだということ)。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである(=キリストを受け入れる者は、実のところ父である神を受け入れているのだということ)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の38~41節より

 

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って(=キリストの名を使って)悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので(=加わらない、もしくは言うことを聞かないので)、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい(=キリストの名にたよっておきながら、そのすぐあとでキリストを悪く言うことはできないだろうということ。そもそもこの人は、キリストの名を使って悪霊を追い出せているので、信仰があったものと思います)。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである(=キリストと人間のあいだにある関係性は、敵対しているか、味方であるかのこのどちらかです。そのちょうど中間の、どっちつかずということはありません。ここではキリストの名で悪霊を追いだしていたのですから、この彼は味方であるのです)。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける(=たとえまだ信仰に対して目がひらかれていないような人であっても、キリストの弟子だという理由で親切にしてくれる人たちには、神が良い報いをさずけられるということ)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の42~48節より

 

『わたしを信じるこれらの小さな者(=子供や弱い者、また信仰が浅い人たち)の一人をつまずかせる者は(=罪を犯させたり、また信仰から離れさせたりする者は)、大きな石臼(いしうす=穀物をすりつぶす石の道具)を首に懸(か)けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい(=それだけのちに、重い裁きが用意されているということ。結局他人をつまずかせる者は、それをとおして自分が罪を犯しているのです)。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい(=この言葉そのものの意味は、もし片方の手があなたに罪を犯させたり、信仰をうばったり、メシアであるキリストを信じなくさせたりするのであれば、切り捨ててしまいなさい、ということだと思います。ですが、キリストご自身が語られているように、人をけがす根本の原因は、その人の内側の悪い心にあります(マルコ7-20~21)。ですから、ここでは、あくまで “つまずかせる” ということの罪の深刻さを、こうした表現でつたえられているのだと思います)。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない(=聖書には、このようにはっきりと地獄の存在が示されています)』

 

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・マルコによる福音書・9章の49~50節より

 

『人は皆、火で塩味を付けられる(=まずここでの “火” とは、キリストが説く言葉、つまりみことばのことです。同じ使われ方が、マタイ3-11にも見られます。そして次に、塩には、神へのささげ物をする際の、穀物などの腐敗をふせぎ、清めるといった意味があります(レビ記2-13、列王記 下2-21)。ですから “火で塩味を付けられる” とは、みことばによって、神にささげるにふさわしいものとされているということです)。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば(=塩としての効果がなくなれば)、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい(=みことばをうわべだけでなく自分のものとして、自分の内側につねに塩をたもち、神へのささげものとしてふさわしい状態にしておきなさい)。そして、互いに平和に過ごしなさい』

 

(次回は10章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。

マルコによる福音書の1章(解き明かし)

2020年6月23日

 

『 マルコによる福音書の1章(解き明かし) 』

 

(今回より “マルコによる福音書” の解き明かしをおこなっていきたいと思います。ここは現在では16章にわけられていますので、それにもとづいて16回にわけて記事にしていくことにします。なおマルコは、十二使徒ではありませんが、十二使徒のペトロの信仰上の息子にあたります(=ペトロ1:5-13を参照のこと)。また福音書とは、キリストの生涯やその教えを記した書のことです)

 

・マルコによる福音書・1章の1~8節より

 

『神の子イエス・キリストの福音の初め(=ふくいんとは、喜ばしい知らせのことです)。預言者イザヤ(=よげんしゃとは、神からの啓示をうけて、その教えや未来に関することなどをつたえる者のこと。イザヤはキリストより700年ほど前に活動した人物になります)の書に(=旧約聖書イザヤ書に)こう書いてある。

「見よ、わたしは(=神は)あなたより先に使者を遣わし(=キリストが地上にあらわれるより先に洗礼者ヨハネを遣わし)、あなたの道を準備させよう(=キリストが宣教しやすいように仕向けさせよう)。荒れ野で叫ぶ者(=こう叫ぶ者)の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ(=キリストの教えが広まりやすいように、そのさきがけとなって準備を整えよ)』」

そのとおり(=イザヤ書にある預言のとおり)、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼(=罪を清めるために身を水にひたす儀式のこと)を宣べ伝えた。ユダヤの全地方(=死海の西側一帯)とエルサレム(=かねてからのイスラエルの中心地)の住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣(けごろも)を着、腰に革の帯(おび)を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方(=キリスト)が、後から(=もう間もなくで)来られる。わたしは、かがんでその方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない(=神であるキリストをこうたたえています)。わたしは水で(=ヨルダン川の水で)あなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊(=神の霊)で洗礼をお授けになる(=キリストは信仰をいだいた者を、聖霊によって清められます。この洗礼をさずかった者はみな、神の子とみなされるのです)」

 

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・マルコによる福音書・1章の9~11節より

 

『そのころ(=ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたころ)、イエスガリラヤのナザレ(=イスラエル北部のガリラヤ地方にある村のことです。キリストの故郷でもあります)から来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた(=このように神であるキリストが、実際に洗礼を受けることの大切さを示されました)。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて(=父なる神がおられる天がさけて)“霊(=神の霊)”が鳩(はと)のように御自分に降(くだ)って来るのを、御覧になった(キリストご自身がご覧になった)。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が(=父なる神の声が)、天から聞こえた(=なお今回のところには、父なる神、子なるキリスト、神の霊である聖霊、という神の三位一体(さんみいったい)を成している、三つの位格が登場されています。これら三つの位格は切っても切れない関係にあり、神は唯一でありながらも、父、子、聖霊という三つの位格において存在されているのです)」

 

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・マルコによる福音書・1章の12~13節より

 

『それから、“霊(=聖霊)”はイエスを荒れ野に送り出した(=これは以下にでてきますが、聖霊が意図して、キリストに悪魔の誘惑を受けさせるために荒れ野へ導かれたということ)。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた(=この世を支配しているのは悪魔であり、かつサタンはキリストが神の子であるのを知っていたので、世の権力や富でほのめかして、キリストに誘惑をもちかけてきました。もちろんキリストはこれらの誘惑を拒み、神への信仰を示されました)。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた(=荒れ野ですから建物などはなく、一日中野生の動物たちと同じ条件下で過ごされていたということ。おそらくこのヨルダン川周辺には、ジャッカルなどの肉食獣も生息していたものと思います。そのため天使たちが、人間の体をもって地上に降り立ったキリストをお守りしていたということです)』

 

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・マルコによる福音書・1章の14~15節より

 

ヨハネが捕らえられたのち(=洗礼者ヨハネは、ヘロデ王(=当時のユダヤの王)に対して、ヘロデが自分の兄弟の妻と結婚したことは、神の律法に反していると述べました。これを不服としたヘロデはヨハネを捕らえ、牢に入れていたのです)、イエスガリラヤへ行き、神の福音を(=神からの喜ばしい知らせを)宣べ伝えて、「時は満ち、神の国(=永遠の御国(みくに))は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(=ここには “悔い改めて” という言葉がでてきています。わたしたちは神の恵みにより、信仰によって救われていますが、この信仰がたしかなものであるとき、その人は必ず悔い改めの心を持つようになっていくのです)』

 

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・マルコによる福音書・1章の16~20節より

 

『イエスは、ガリラヤ湖(=イスラエル北部にある湖)のほとりを歩いておられたとき、シモン(=十二使徒のペテロのこと)とシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた(=ここでの “人間をとる” とは、それまで神に信仰のなかった者を、信仰のある者へと導くことをあらわしています。要するに、人間をとる=人に神を信じるように仕向けさせる、といったところでしょうか。ですので、ここでの人間をとる “漁師” とは、人間を神へと向けさせる “伝道師” のことを指しています)。二人はすぐに網を捨てて従った(=この場でただちにキリストの弟子になった)。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが(=ヤコブヨハネ十二使徒です。その父がゼベダイだということ)、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇(やと)い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った(=この二人もこの場でただちに弟子になったということ)』

 

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・マルコによる福音書・1章の21~28節より

 

『一行はカファルナウム(=ガリラヤ湖の北西の岸にある町)に着いた。イエスは、安息日(=仕事を休み、神に礼拝を行う日のことで7日ごとにおとずれる)に会堂(=礼拝を行う場所)に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者(=神が定めた律法を説く者。ただしこの当時の律法学者は、モーセ(=かつてのイスラエルの民の指導者)のときの律法を歪曲(わいきょく=ねじ曲げること)してしまっていました)のようにではなく、権威ある者として(=権威に満ちたご自身の言葉で)お教えになったからである。そのとき、この会堂に汚(けが)れた霊(=悪霊のこと。これは堕落した天使のことです)に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ(=神の御子(みこ=神の子)だ。つまりこの悪霊は、キリストが神の御子であることを知っている)。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ(=悪霊でさえが聞き従うほどの権威を、キリストが示されたということ)。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々(すみずみ)にまで広まった』

 

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・マルコによる福音書・1章の29~34節より

 

『すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレ(=キリストの弟子)の家に行った。ヤコブヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめ(=シモンの妻の母)が熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした(=一瞬で病(やまい)が治ったということ)。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし(=治し)、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである(=悪霊は、キリストが神の御子であるのを知っていたということ)』

 

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・マルコによる福音書・1章の35~39節より

 

『朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は(=弟子たちは)イエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜(さが)しています(=これは、病を治せるキリストに会いたがっているということ)」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する(=神の福音を言い広める)。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された』

 

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・マルコによる福音書・1章の40~45節より

 

『さて、重い皮膚病(=当時の人々には治せない皮膚病)を患(わずら)っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心(みこころ)ならば(=神のご意志がここにあるならば)、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった(=人間には治せない病をキリストが治したということ。これはほかならぬ神が実在していることを、キリストが示したことになります)。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司(=神に礼拝や供え物をささげる人)に体を見せ、モーセが定めたものを(=神がモーセに与えた律法で定めているものを)清めのために献げて、人々に証明しなさい(=口で言いふらさずに、掟(おきて)どおりの献げ物をすることで、神に病を治してもらったことを人々に示しなさい。ここでのキリストは、難病を治した神がおられるということを、神の律法に則ったかたちで、人々に証(あか)しされることを望まれていました)。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず(=うわさを聞きつけた者たちの、人だかりのために町に入ることができず)、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た』

 

 

(次回は2章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。

聖書の預言である、エゼキエル戦争について

2020年3月4日

 

『 聖書の預言である、エゼキエル戦争について 』

 

(以下の、エゼキエル書・38章の1~23節(=いまから2500年以上前に書かれた)には、世のおわりに向かう過程で、マゴグ(=現ロシア)が連合軍を組み、イスラエルに侵攻することになる、といった預言がつづられています。なおこの書は、神がエゼキエルに啓示(けいじ)をあたえられたことで、書きのこされました)

 

『主(=神)の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ(=エゼキエルよ)、マゴグ(=現ロシア)の地のゴグ(=これはロシアの指導者を指す称号のことです)、すなわちメシェク(=ロシアのモスクワのこと)とトバル(=ロシアのトボリスクのこと)の総首長(=つまりゴグ)に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェク(=モスクワ)とトバル(=トボリスク)の総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう(=世のおわりの計画の成就のために、お前と向かいあう)。わたしはお前を立ち帰らせ(=連れ歩き)、お前の顎(あご)に鉤(かぎ=物を引っかけるためのもの)をかけて、お前とその全軍(=ゴグとロシアの軍隊)、馬と騎兵を連れ出す。彼らは皆完全に武装した大集団で、大盾(おおだて)と小盾(こだて)を持ち、皆剣を持っている。ペルシア(=現イラン)、クシュ(=現スーダン、もしくは現エチオピア)、プト(=現リビア、もしくは現ソマリア)が彼らと(=ロシアの軍隊と)共におり、皆、盾を持ち、兜をかぶっている。ゴメル(=これは現トルコからヨーロッパにかけてのどこか)とそのすべての軍隊、北の果てのベト・トガルマ(=現トルコ)とそのすべての軍隊、それに多くの国民がお前と共にいる(=ロシアを中心とする大きな連合軍であるということ)。備えをせよ。お前(=ゴグ)も、お前のもとに召集されるすべての集団も備えをせよ。お前は彼らの監督となれ(=ゴグはこれらの連合軍の指揮をとれ)。多くの日の後(のち)、お前(=ゴグ)は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う(=これはイスラエルを襲うということ。なおここには、“多くの年を経た後” とありますが、これは要するに、ゴグが呼び出され、戦争を仕掛けることになる時期までが、神によって定められているということ。ちなみにこの預言を神がエゼキエルにさずけたのは、今より2500年以上前ですから、すでに現時点においても “多くの年が経っている” といえるものと思います)。それは長く荒れ廃(すた)れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから(=第二次世界大戦から)解放され、多くの民の中から(=世界中から)集められた民(=イスラエル人)がいる(=イスラエル人は大戦後の1948年にイスラエルが建国されるまで、帰るべき国がなく、長い間世界中に散らばっていましたが、いまは自分たちの国をもち、人々が集まっています)。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。お前(=ゴグ)は嵐のように上って来て、地を覆う雲のように襲いかかる。お前とお前の全軍、お前と共にいる多くの民は。主なる神はこう言われる。その日、お前の心に言葉が浮かぶ。お前は悪い計画を立て、そして言う。『わたしは囲いのない国へ(=イスラエルへ)攻め上る。城壁もかんぬき(=門をしめるための横木)も門もなく安らかに生活している静かな国を襲う』と。お前はかつて廃虚であったが、今は人の住んでいる国(=イスラエルのこと)、諸国民のもとから(=世界中から)集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に(=イスラエル人に)対して手を上げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとしている(=この物資や財産の略奪が、連合軍が侵攻する理由です)。シェバとデダン(=おもに現サウジアラビア)、タルシシュ(=候補として現イギリスやスペイン)の商人たち、およびその富豪(ふごう)たちはすべてお前(=ゴグ)に言う。『お前は戦利品を奪うために来たのか。お前はほしいままに略奪するために集団を組んだのか。金銀を運び去り、家畜や財産を手に入れ、多くの戦利品を奪おうとするのか』と。それゆえ、人の子よ(=エゼキエルよ)、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか(=物資や財産を盗みとろうとするのか)。お前は北の果ての自分の所から(=イスラエルの北にあるロシアから)、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に(=世のおわりの日に)起こる。わたしはお前を、わたしの地に(=イスラエルに)連れて来る(=このようにゴグの侵略も、神の計画のうちであるということ)。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で(=世界中で)、お前を通して自分の聖なることを示し(=神であることを示し)、彼らがわたしを知るようになるためである(=これは以下にでてきますが、つまりイスラエルに侵攻したゴグの連合軍を、神ご自身が壊滅させることで、世界中の人々が、神の存在を知るようになるということ)。主なる神はこう言われる。お前は、遠い昔、わたしが僕(しもべ)であるイスラエル預言者たちを通して語ったその者ではないか(=これはかつての預言者たちに、ゴグに関する預言をさせていたということ)。この預言者たちは、長年にわたって、彼ら(=イスラエル人)に向かってわたしがお前(=ゴグ)を来させる、と語った(=ゴグの襲来をつたえていた)。ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤り(いきどおり=怒り)は激しく燃え上がる。わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる。海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這(は)うすべてのもの、および地上のすべての人間は、わたしの前に震える(=神の御業(みわざ)の前に震えることになる)。山々は裂け、崖は崩れ、すべての城壁は地に倒れる。わたしはすべての山の上で(=侵攻されていたイスラエルのすべての山の上で)、ゴグに向かって剣を呼び寄せる、と主なる神は言われる。人はおのおの、剣をその兄弟に向ける(=連合軍に反乱がおこり、同士討ちする)。わたしは疫病(えきびょう=感染症)と流血によって彼(=ゴグ)を裁く。わたしは彼とその軍勢、また、彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹(ひょう)と火と硫黄(いおう)を注ぐ(=これは言葉どおり、こうしたものを神が注ぐということ)。わたしは自らの偉大さと聖(=せいとは、神の絶対的な尊厳をあらわした表現のこと)とを多くの国々の前に(=世界中に)示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる(=こうして世界中の人たちが、神の存在を認め、キリストが神であるということを知るようになります)』

 

(上記には、世のおわりに起こるとされる侵略についての預言がつづられています。これは簡単にまとめますと、イスラエルはこの先、北から押し寄せる連合軍によって、戦争を仕掛けられるということです。そしてそれらの連合軍を神が滅ぼす(=その一つに、神がイスラエルにおこす大地震があります)ことで、それを目の当たりにした世界中の人たちが、神(=キリスト)が実在していることを知るようになるのです。なお上記の侵略は、このさらにあとに起こる、反キリストによるハルマゲドンとはべつのものになります)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。