聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の12章(解き明かし)

2020年7月24日

 

『 マルコによる福音書の12章(解き明かし) 』

 

(それでは12章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・12章の1~12節より

『イエスは、たとえで彼らに(=これはおもに祭司長や律法学者、長老たちに向けて)話し始められた。「ある人(=これは父なる神のことです)がぶどう園(=イスラエルのこと)を作り、垣(かき)を巡らし、搾(しぼ)り場を掘り、見張りのやぐら(=見張り台)を立て、これを農夫たち(=この農夫たちが、祭司長や律法学者、長老たちのこと)に貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕(しもべ=これは神の使者である預言者のこと)を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕(=他の預言者)を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱(ぶじょく)した。更に、もう一人(=もう一人の預言者)を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕(=多くの預言者)を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された(=これがこれまでのイスラエルの歩みを示しています。ユダヤ人の指導者たちは、それぞれの時代において、つねに預言者を迫害してきたのです)。まだ一人、愛する息子がいた(=この息子が御子であるキリストのことです)。『わたしの息子なら敬(うやま)ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取(あとと)りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産(=これはぶどう園のことであり、イスラエルのことです)は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった(=これは祭司長や律法学者、長老たちがキリストを罪人に仕立てあげ、死刑に処されるように仕向けさせたことを意味しています。実際キリストは十字架の刑によって殺されてしまいました)。さて、このぶどう園の主人は(=父なる神は)、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない(=これはぶどう園にもどってきた神が、農夫たちを裁き、ほかの信仰のあるユダヤ人にぶどう園(=イスラエル)をあたえるということ。なおこれはキリストが再臨されたあとの、千年王国において成就します。というのも、現在のユダヤ人の多くは、いまもキリストへの信仰をもっていないので、このぶどう園を引き継げる状況にありません。それは艱難期(=世の終末)が進むにつれて、彼らがキリストに助けを乞い、彼をメシアだと認めるようになってから成就することなのです。なおこのときには世界中の信者たちも、神の国(=千年王国)に招かれることになります)。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石(すみのおやいし=これは家を建てる際に、最も重要となる石のことです。この石をとりのぞくと、それだけで家がくずれたりすることになります)となった(=これは詩編118-22の言葉です。その意味は、ユダヤ人たちが家を建てる(=国を建てていく)際に、邪魔だと思って捨てた石が、実は一番重要な石だったということであり、その捨てた石こそが、のちに千年王国を統治するキリストだったということです。そのキリストを、彼らはよりによって十字架の刑に仕向けて、殺してしまったのです)。これは、主(=神)がなさったことで、わたしたちの目には(=わたしたち人間の目には)不思議に見える(=なぜ不思議に見えるかというと、御子であるキリストが一度はこうして捨てられて、殺される定めにあったということを、ほかならぬ神がお決めになっていたからです)。』」彼らは(=祭司長や律法学者、長老たちは)、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた(=群衆の支持を得ているのはキリストであるため、そのキリストを捕らえれば、群衆の反感をかうことになります)。それで、イエスをその場に残して立ち去った』

 

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・マルコによる福音書・12章の13~17節より

『さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥(おとしい)れようとして、ファリサイ派(=キリストを敵視しているユダヤ教の一派)やヘロデ派(=同じようにキリストを敵視しているヘロデ王の支持派)の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです(=これは要するにおだてて言っているだけです)。ところで、皇帝(=これはローマ帝国の皇帝のこと。当時のエルサレムローマ帝国支配下にありました)に税金を納めるのは、律法に(=神の教えに)適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた(=実は彼らのこの問いは、皇帝に納めるべきと答えれば、ユダヤ人からの反感をかい、皇帝に納めるべきではないと答えれば、ローマの法律に違反するという、どちらで答えるにしてもキリストをおとしいれるものになっていました)。「なぜ、わたしを試(ため)そうとするのか。デナリオン銀貨(=これは皇帝の肖像がほられているローマの銀貨のことです。当時のユダヤ人は、この偶像崇拝を意味する銀貨によってローマに税金を納めていたのです)を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘(めい)か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った(=なぜ彼らがおどろいているかというと、この答えようがなかったはずの問いに、このように返す言葉がないほどの返答をされたためです。その理由としては、そもそもこの銀貨には偶像がほられているため、この銀貨を所有していること自体が神の教えに反するものになっています。そこでそうした銀貨は、もともとの持ち主である皇帝に返してしまいなさいと述べておられるのです。そうすることで、それは結果的にローマに税金を納めることにもなり、ローマとの軋轢(あつれき)を生むことはありません。さらにここでのキリストは、神のものは神に返しなさい、と述べることで、神の所有物であるあなたがた自身を、神へとささげてこころを尽くしなさい、とつたえられています。このようにして銀貨などでは到底比較できない神のことを対比させることで、人々のこころを神へと立ちかえらせようとさえしておられるのです。これには彼らも、言葉一つ返せなかったものと思います)』

 

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・マルコによる福音書・12章の18~27節より

『復活(=死から甦ること)はないと言っているサドカイ派(=ユダヤ教の一派)の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセ(=エジプトの奴隷だったイスラエルの民を、率(ひき)いた人物)はわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時(=神の国に入るために死から甦るとき)、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁(とつ)ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴(しば=山などに生えている雑多な木のこと)』の個所で(=これは出エジプト記3章のこと)、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている(=ここでは、復活することを信じていないサドカイ派に向かって、キリストが言葉を返されています。その内容は、一見 “復活” とは関係ないことのように思えますが、キリストがアブラハム(=アブラハムとは、イスラエル民族の祖(そ)と言われている人物です(創世記17-4~6))やイサク(=アブラハムの子)、ヤコブ(=イサクの子)といった名を挙げているのは、彼らが今後神によって復活させられることが確約しているからです。彼らはもちろん現在は死んでしまっていますが、この彼らには神から “永久にカナンの土地(=これは地中海とヨルダン川死海にはさまれた地域のことです)があたえられる” と約束されています(=創世記13-14~17)。しかしこれは現在にいたってもまだ成就されていませんので、この約束が果たされるためには、彼らは死から甦る必要があるのです。この約束が果たされることを知っているキリストは、それゆえに彼らを死んだ者としてではなく、いまも生きている者として、こう語られたのだと思います(=そもそも人間の死とは、魂と体が分離することであって、魂は決して消滅することなく、いまも生きているのです。コリント二:5-8~9、ルカ16-22~23)。これに対しサドカイ派の人々は、やはり反論一つできなかったものと思います。聖書の言葉を信じていなかったことを、彼ら自身がつきつけられるかたちになったからです)」』

 

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・マルコによる福音書・12章の28~34節より

『彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟(おきて)のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった』

 

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・マルコによる福音書・12章の35~37節より

『イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか(=これは旧約聖書で、ダビデの子孫からメシアが誕生すると預言されているため、人々のあいだでこう言われていました(サムエル記 下7-8~16)。そのため、メシアはダビデの子だ、というのはまちがいではありません。事実、キリストは処女であるマリアからお生まれになりましたが、法律上はダビデの子孫なのです(マタイ1-1~17)。ただ、ここでキリストが問題にしているのは、どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子であるという、メシアの人間としての側面にしか目を向けないのか、ということなのだと思います。キリストには数々の奇跡をおこなってきた神としての側面もありますので、どうしてこの神としての側面に目を向けようとしないのか、という意味が、この問いかけにはこめられているのです)。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は(=父なる神は)、わたしの主に(=メシアであるキリストに)お告げになった。「わたしの右の座に着きなさい(=これは天の御座(みざ)のことで、十字架から復活したキリストは、父からのご命令のとおりに、現在この座についておられます)。わたしがあなたの敵(=サタン)を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と(=神がキリストの敵、サタンを底なしの淵(ふち)に封印する時期がくるまで、天の御座に着いていなさいということ(詩編110-1)。要するにこれはキリストが再臨するときのことを指しています)。』このようにダビデ自身がメシアを主(=わたしの主)と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか(=ダビデは、自分が生きているときから、つまりまだ子孫をもたないうちから、メシアがすでに生きておられるのを知っていました。ですから、メシアがダビデの子という発想の中だけにとどまってしまうことは、誤りであるのです。たしかにキリストは、人間としてこの世に降り立つために、ダビデの子孫としてお生まれになりました。しかしキリストは、それと同時に神でもあるのです。この視点でメシアを見ることのできない者たちは、とても重要な真理を見落としてしまっているのです。ここでのキリストが問いかけているのは、なぜメシアが、ダビデの子孫(=人間)でありながら神でもあることに気づかないのか、ということにあるのだと思います)。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた』

 

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・マルコによる福音書・12章の38~40節より

『イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者(=律法を説く身にありながら、それらを歪(ゆが)めて広めている者たち)に気をつけなさい。彼らは、長い衣(ころも)をまとって歩き回ること(=律法学者としての地位を見せつけること)や、広場で挨拶されること、会堂では上席(じょうせき=上位とされる席)、宴会では上座(じょうざ=これも上位とされる席)に座ることを望み、また、やもめ(=夫のいない女、また夫を失った女のこと)の家を食い物にし(=献金させるなどして私欲を満たすために利用しているということ)、見せかけの長い祈り(=いつわりの祈り)をする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる(=それぞれの罪の度合いに応じた裁きが用意されているということです)」』

 

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・マルコによる福音書・12章の41~44節より

『イエスは賽銭箱(さいせんばこ)の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚(=ギリシアの通貨です。いまでいう80円程度)、すなわち一クァドランス(=ローマの通貨におきかえています)を入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである(=このやもめは、今日一日の生活費さえ惜しまずに、神へとささげています。それはたしかに裕福な者から見れば、少ない金額なのでしょうが、しかし神の目には、だれよりもたくさん入れた、と見なされているのです。これがわたしたちの神のご視点だということです)」』

 

(次回は13章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。