聖書からの素敵な言葉を

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マルコによる福音書の9章・全文(解き明かし)

2020年7月14日

 

『 マルコによる福音書の9章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは9章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・9章の1節より

 

『また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には(=十二人の弟子たちの中には)、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる(=これは次の9章2~8節でふれますが、ペトロ、ヤコブヨハネの三人のことを指しています。彼らはこの六日後に、とある山でキリストの姿が、神の国の栄光につつまれるのを目撃することになります。またとくにこのうちのヨハネにいたっては、この何十年後かに、千年王国や、永遠の御国(みくに=神の国)の幻をキリストから見せられて、それを黙示録として書きのこすまでは、決して死ぬことがありませんでした(=黙示録21、22章)。なおこの弟子のヨハネは、洗礼者ヨハネとは別人になります)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の2~8節より

 

『六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブヨハネ(=弟子のうちの三人)だけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人(=布を漂白する職人)の腕も及ばぬほど白くなった(=この世のものではなく、神の国に属した白さだということ。キリストは、神の栄光の輝きにつつまれていました)。エリヤがモーセと共に現れて(=エリヤは旧約聖書を代表する預言者であり、モーセイスラエルの民をエジプトから救い、神のお告げに従って律法をのこした人物です)、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋(=ちょっとした幕屋(=礼拝所)のこと)を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである(=三人の弟子たちは、キリストの姿が変わり、死者であるはずのモーセと天に上げられたはずのエリヤ(列王記 下2-11~14)の姿を目の当たりにしたために、なにが起こっているのか理解できず、恐れをいだいていたということ)。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け(=これは天の父なる神の声です。キリストは愛する御子(みこ)であり、その彼の教えや言葉に耳を傾けなさいということ)。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた(=エリヤとモーセは消え失せ、キリストも元の姿にもどっていたということ)』

 

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・マルコによる福音書・9章の9~11節より

 

『一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子(=キリスト)が死者の中から復活するまでは(=十字架にかけられることになって、一度死に、そこから復活するまでは)、今見たことを(=キリストとモーセとエリヤの三人が、栄光の輝きにつつまれていた光景のことを)だれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた(=これはまだ人々に広める時ではないということ)。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った(=弟子たちは、キリストが死んだりすることなく神の国をもたらしてくれると思っているので、そのキリストが一度死に、復活するということの意味をわからずにいます。言いかえるなら、メシア(=救い主)であるキリストが、いまあるローマ支配の状況を打ちこわしもせずに、死ぬはずがないと信じられずにいるのです)。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた(=これは旧約聖書・マラキ書3章に、神の国がもたらされる前に、神がエリヤをあなたがたの前に遣わす、との預言があるため、こう尋ねています。彼らには、キリストが死から復活するということへの混乱に加え、このエリヤが遣わされる件もまだ成就してないではないかとの思いがあるのです)』

 

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・マルコによる福音書・9章の12~13節より

 

『イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする(=たしかに預言されているように、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。ここでの “元どおり” とは、キリストがあらわれる前に、前もってエリヤが、神から離れたユダヤ人のこころを、また神に向かわせ、信仰を回復させておくということ。この言葉自体は、マラキ書3-23~24からの引用で、これはキリストの再臨にまつわる預言になっています。ここはむずかしいので先に結論を述べておきますが、以下でのキリストは、この再臨の前にあらわれるエリヤに対して、初臨(しょりん)の前にあらわれた洗礼者ヨハネをかさねあわせて語られています。要は信じる者にとっては、エリヤと同等のはたらきをヨハネの中に見ることができ、ある意味 “エリヤが来る” という預言の成就を、ヨハネをとおして体験できるようになっていたということです。ですからあとはメシアの到来だけを、こころ待ちにしていた状態にあったとも言えるのです)。それなら、人の子(=キリスト)は苦しみを重ね、辱(はずかし)めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか(=キリストがあらわれるより先に、信仰が回復されて準備がととのっているはずなのに、それならなぜ、実際のキリストが拷問をうけ、裸(はだか)にされ、十字架にかけられることになるのか、と弟子たちに問いかけています。これはいまのわたしたちには、新約聖書があるので、わたしたちの罪の身代わりとしてこられた “初臨” と、悪を一掃(いっそう)するためにこられる “再臨” との区別がつきますが、当時の弟子たちにとっては、いまいるキリストがメシアとしての道をひたすすみ、このまま世を治めてくれるはずだと思いこんでいる背景があります。ですから彼らからすれば、この先、キリストが苦しむことになるという預言(=イザヤ53章など)への理解が、なかなかともなってこない状態にあるのです。こうして自分たちの目の前にメシアであるキリストがいるというのに、なぜそのキリストが苦しむことになるのか、またそれ以前に、そもそもエリヤもまだあらわれてないではないか、という疑問がぬぐえずにいるわけです)。しかし、言っておく。エリヤは来たが(=信じる者にとっては、エリヤと同等のはたらきをするヨハネが来たが)、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである(=旧約時代のエリヤは、神に仕えていましたが、人々は預言者を殺すなどして、彼をあしらいました(列王記 上19-10)。そしてヨハネも神に仕えていましたが、ヘロデ王の宴会(えんかい)の席で殺されました。これらの二つの出来事をかさねた言いまわしをすることで、理解の追いついてこない弟子たちに、もうすでにエリヤは来て、しかもあしらわれた(=殺された)のだ、ということをつたえておられます。しかし厳密な意味では、ヨハネはエリヤ自身ではなく、エリヤの霊と力をやどしていた人物ということになります。ただし信じる者にとっては、ヨハネのはたらきは、再臨の前におとずれるエリヤと同等のものであったということです。ここでのキリストは、こうした意味をこめて語られていたものと思います。なおここのところはマタイ11-14、17-11~13、ルカ1-15~17、マラキ3-23~24なども参照してください)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の14~29節より

 

『一同が(=キリストとペトロ、ヤコブヨハネが)ほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊(=悪霊)に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか(=だれひとりこの子のことや、悪霊を追いだすことについて、神へと目を向けて祈ることをせず、そればかりか議論までしていた状況をなげいておられます。そしてこうした信仰のなさが、キリストが到来してくださっているにもかかわらず、いたるところで見られた時代だということ)。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに(=あなたがたの信仰のなさに。あるいは信仰のうすさに)我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた(=悪霊は、このように一瞬でキリストが神であるのを見抜きます)。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました(=自殺させるような行動にかりたてていたということだと思います)。おできになるなら、わたしどもを憐(あわ)れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください(=父親は、自分に信仰がなかったのをみとめた上で、これからは信じますと助けを求めています)。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚(けが)れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ(=祈りをとおして、じかに神に依り頼(よりたの)まなければ)決して追い出すことはできないのだ」と言われた』

 

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・マルコによる福音書・9章の30~32節より

『一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである(=キリストは、ご自身がメシアであることも、いまは口止めされていました(マルコ8-29~30)。そしてこれに加え、ご自身が一度死に、そして三日目に復活するということも、口止めされていたものと思います。こうした神のご計画の核心にふれるものについては、まだ人々に広めるときではないと判断されていたということです。実際いまはローマの支配下にあり、またファリサイ派(=ユダヤ教の一派)からも命を狙われていました(マルコ3-6)。こうした状況において、ご自身が救世主であるとのうわさが飛び交うことは、さけるべきことだったのだと思います。キリストはなににもまして、神のご計画だけは確実にやりとげる必要があったのです)。弟子たちはこの言葉が分からなかったが(=キリストが一度死に、そこから三日目に復活するということの意味がわからなかったが)、怖くて尋ねられなかった(=彼らにとってキリストはユダヤの王であり、このキリストこそが、ローマ支配の現状を打ちこわし、神の国を治めるべきメシアであるのです。そのメシアが死ぬことなどあってはならず、彼らは真相を知るのが怖くなっていたのだと思います)』

 

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・マルコによる福音書・9章の33~37節より

 

『一行はカファルナウム(=ガリラヤ湖の北西の岸にある町)に来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉(えら)いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者(=神の国でより偉くなりたい者)は、すべての人の後になり(=この地上にいるあいだ、他人よりも自分を低くして)、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである(=キリストの名(=ご性質)を敬(うやま)っているがゆえに、このような子供をわけへだてなく受け入れられる者は、キリストをこころから受け入れているのだということ)。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである(=キリストを受け入れる者は、実のところ父である神を受け入れているのだということ)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の38~41節より

 

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って(=キリストの名を使って)悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので(=加わらない、もしくは言うことを聞かないので)、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい(=キリストの名にたよっておきながら、そのすぐあとでキリストを悪く言うことはできないだろうということ。そもそもこの人は、キリストの名を使って悪霊を追い出せているので、信仰があったものと思います)。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである(=キリストと人間のあいだにある関係性は、敵対しているか、味方であるかのこのどちらかです。そのちょうど中間の、どっちつかずということはありません。ここではキリストの名で悪霊を追いだしていたのですから、この彼は味方であるのです)。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける(=たとえまだ信仰に対して目がひらかれていないような人であっても、キリストの弟子だという理由で親切にしてくれる人たちには、神が良い報いをさずけられるということ)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の42~48節より

 

『わたしを信じるこれらの小さな者(=子供や弱い者、また信仰が浅い人たち)の一人をつまずかせる者は(=罪を犯させたり、また信仰から離れさせたりする者は)、大きな石臼(いしうす=穀物をすりつぶす石の道具)を首に懸(か)けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい(=それだけのちに、重い裁きが用意されているということ。結局他人をつまずかせる者は、それをとおして自分が罪を犯しているのです)。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい(=この言葉そのものの意味は、もし片方の手があなたに罪を犯させたり、信仰をうばったり、メシアであるキリストを信じなくさせたりするのであれば、切り捨ててしまいなさい、ということだと思います。ですが、キリストご自身が語られているように、人をけがす根本の原因は、その人の内側の悪い心にあります(マルコ7-20~21)。ですから、ここでは、あくまで “つまずかせる” ということの罪の深刻さを、こうした表現でつたえられているのだと思います)。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない(=聖書には、このようにはっきりと地獄の存在が示されています)』

 

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・マルコによる福音書・9章の49~50節より

 

『人は皆、火で塩味を付けられる(=まずここでの “火” とは、キリストが説く言葉、つまりみことばのことです。同じ使われ方が、マタイ3-11にも見られます。そして次に、塩には、神へのささげ物をする際の、穀物などの腐敗をふせぎ、清めるといった意味があります(レビ記2-13、列王記 下2-21)。ですから “火で塩味を付けられる” とは、みことばによって、神にささげるにふさわしいものとされているということです)。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば(=塩としての効果がなくなれば)、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい(=みことばをうわべだけでなく自分のものとして、自分の内側につねに塩をたもち、神へのささげものとしてふさわしい状態にしておきなさい)。そして、互いに平和に過ごしなさい』

 

(次回は10章を見ていきたいと思います)