聖書からの素敵な言葉を

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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の11章・全文(解き明かし)

2020年7月21日

 

『 マルコによる福音書の11章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは11章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・11章の1~11節より

『一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニア(=どちらも地名)にさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村(=おそらくベトファゲかベタニアのこと)へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる(=キリストはそこにろばがいることを見透かしておられます)。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入(い)り用(=必要)なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい(=これはメシアがろばに乗ってエルサレムに入ることが、旧約聖書で預言されているため、キリストがこう述べられています。ゼカリヤ9-9)。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた(=これは祭りに倣(なら)った行為であり、メシアに対しての喜びをあらわしています。レビ23-40)。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ(=以下に、民衆が叫んだ賛美がつづきます)。

「ホサナ(=訳としては、救い給(たま)え、という意味。これは詩編118-25~26にあるメシアの到来をまちわびていた民衆が、神をたたえて熱狂していると捉えるといいように思います)。主の名によって来られる方に(=神の権威によって来られるキリストに)、祝福があるように。我らの父ダビデ(=ダビデは神への信仰をもっていた古代イスラエルの王で、イスラエルを繁栄させた人物です)の来るべき国に、祝福があるように(=これは民衆が、これからキリストによってもたらされるであろう神の国を期待し、ダビデが治めていたころの強い国に、その想いを重ねています)。いと高きところにホサナ(=訳としては、天の高きところにお救いください、といったところでしょうか)」

こうして、イエスエルサレムに着いて、神殿(=神を礼拝するための建物)の境内(けいだい)に入り、辺りの様子を見て回った後(あと)、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた(=このようにエルサレムに入られたキリストは、もはやご自分がメシアであることを隠そうとはせず、民衆のメシアに対する賛美もやめさせようとはしませんでした。いよいよ十字架への時の進行を、だれもさまたげることはできないところまできたということなのだと思います)』

 

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・マルコによる福音書・11章の12~14節より

『翌日、一行がベタニアを出るとき(=再びエルサレムに向かうとき)、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである(=これは、ここでの “実” のない状態が、これから行くエルサレムの、とりわけ神殿での信仰が守られていない状態を暗示しているのだと思います(エレミヤ8-13)。その不信仰の様子が、次の15~19節につづられています)。イエスはその木に向かって、「今から後(のち)いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた(=キリストのこの言葉によって、この木は、明日の朝には枯れてしまうことになります。これはすなわち、信仰がすたれてしまったエルサレム神殿のゆくすえを示しているのだと思います。“実がない” という表現であらわされたエルサレム神殿は、この40年後(西暦70年)に、ローマ軍によって破壊されることになります。これによってエルサレム神殿は、もはや礼拝をささげる場ではなくなったのです)。弟子たちはこれを聞いていた』

 

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・マルコによる福音書・11章の15~19節より

『それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り(=まずエルサレム神殿の造りを大まかに説明しますと、奥から順に、祭司(=神殿の行事に関わる人)だけが入れる祭司の庭、ユダヤ人の一般男性が入れる男子の庭、ユダヤ人の一般女性が入れる婦人の庭、異邦人が入れる異邦人の庭というように分けられています。そしてここでいう “境内” とは、異邦人の庭のことを指していて、これより奥に立ち入ることのできない異邦人は、この場所で神に礼拝をささげていました)、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人(りょうがえにん)の台や鳩(はと)を売る者の腰掛けをひっくり返された(=ここでの両替人とは、礼拝におとずれた人々が使用している貨幣(かへい=お金)を、神にささげるための指定された貨幣に両替する人のことです。というのも通常の貨幣には、地位の高い者(=皇帝など)の肖像が彫りこまれていたため、それらは偶像崇拝にあたり、神殿内での使用がゆるされていませんでした。また鳩を売る者とは、神にいけにえとしてささげるための鳩を売っている人のことです。これらはある意味では、神殿をとりしきっているユダヤ人にとっては必要な商売でしたが、手数料などの利益を高く設定し、しかもそれをよりによって神への祈りをささげるための境内でおこなっていたのです。それゆえキリストは、場所をわきまえずに欲に目がくらんだ者たちへ、こうして怒りをあらわされているのです)。また、境内を通って物(=商品のことだと思います)を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか(=これはイザヤ56-7のことを指しています)。『わたしの家(=神の家であるエルサレム神殿)は、すべての国の(=世界中の)人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった(=祈りの場を商売で荒らしてしまった)。」祭司長たちや律法学者たちは(=ユダヤ人の指導者たちは)これを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀(はか)った(=くわだてた)。群衆が皆その教えに打たれていたので(=群衆が皆、キリストの教えにこころを打たれていたので)、彼らはイエスを恐れたからである(=ユダヤ人の指導者たちは、キリストが群衆からの支持を得ているので、自分たちの地位や立場があやうくなるのではないかと恐れています)。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた』

 

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・マルコによる福音書・11章の20~26節より

『翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た(=これは信仰のないエルサレム神殿の崩壊を、暗示しているのだと思います)。そこで、ペトロ(=十二人の弟子のうちの一人)は思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる(=これは、神への信仰があるならば、木を枯れさせることができるばかりでなく、山をも海に飛びこませられるということ。言いかえるなら、人生において不可能と思えることでも、神にこころから祈り求め、かつそれが御心(みこころ)に適っているならば、その不可能が可能なものになるということです。もちろんこの際に、山をどかされるのは、それを祈っている本人ではなく、神ということになります)。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既(すで)に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦(ゆる)してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」』

 

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・マルコによる福音書・11章の27~33節より

『一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老(=イスラエルの部族制度を仕切る者)たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなこと(=これは神殿内で彼らの商売道具をひっくり返したことなどを指しています)をしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか(=もちろんキリストに権威をあたえておられるのは、父なる神です)。」イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は(=ヨハネが民衆にさずけていた悔い改めの洗礼は)天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい(=ヨハネの洗礼は、もちろん神からの使命にもとづいていました。ですからこの問いには “天からのもの” と答えるのがただしいことになります)。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう(=この言葉から察するに、彼らの多くは、ヨハネを拒絶していたのだと思います。そしてそのことを群衆は知っているのです。それゆえ彼らは、“天からのもの” という答えを選べる状況にありませんでした)。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである(=ここで彼らが群衆を怖れている理由は、群衆は皆、ヨハネが本当の預言者だ(=天からのものだ)と思っていたので、“人からのもの” と答えた際には、群衆からの反感をかってしまうことになります。もしこう答えようものなら、ただでさえキリストの到来に熱狂している群衆ですので、どんなさわぎがおこされるともかぎりません。それゆえに彼らは、ヨハネを “人からのものだ” とも答えられない状況にあったのです)。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた(=彼らはどちらで答えても、自分たちが危険にさらされるので、わからない、と答えています)。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい(=このようにキリストは、これ以降もユダヤ人指導者をよせつけない言葉を語られていくことになります)」』

 

(次回は12章を見ていきたいと思います)