聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか

2021年9月20日

 

『 わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか 』

 

(今回は、キリストのことを「主よ、主よ」と言うだけでなく、キリストのおしえも実践していかなければならない、ということについてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・6章の46~49節より

『わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うこと(=聖書にあるキリストのおしえ)を行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆(=信仰者が皆)、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて(=ここでの “岩” とは、キリストのことです。キリストを土台として)家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので(=キリストを土台とし、そのおしえにもしたがい、まさに信仰が固(かた)かったので)、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は(=こころからの信仰にいたっていない人、不信仰者は)、土台なしで(=キリストという土台なしで)地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった(=困難が押しよせると、キリストを土台とせず、そのおしえにもしたがっていなかった信仰は、無残にくずれてしまった)』

 

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(わたしたちは信仰によって救われています。そしてこの信仰がほんものであるとき、その人はおのずとキリストのおしえを実践していきます。ですからおこないのともなっていない信仰は、見なおしていく必要があるのです。どうか一人でも多くの方が、聖書のおしえのすばらしさに目をむけて、実戦していくことができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない

2021年9月18日

 

『 悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない 』

 

(今回は、キリストへの信仰は、おのずと良い実をむすんでおもてにでてくる、ということについてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・6章の43~45節より

『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨(いばら)からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉(=キリストを信じ、聖書のことばを学んでたくわえているくら)から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉(=神への信仰がなく、この世の金銭や物を愛しているこころのくら)から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ること(=こころにあって、そこからでてくるもの)を語るのである』

 

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(キリストを主とあおぎながらも、以前からの生活をなにも変えていないなら、その信仰は見なおしていく必要があります。なぜなら信仰のある人は、以前の罪に対して無頓着だった自分から離れ、聖書のおしえを実践していこうとするからです。どうか一人でも多くの方が、聖書にふれて、神のおしえにしたがった良い実をむすんでいくことができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである

2021年9月16日

 

『 あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである 』

 

(今回は、自分が他人を見る基準で見返される、ということについてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・6章の37~38節より

『人を裁(さば)くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦(ゆる)しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる(=つめこんだり、ゆすったり、盛りあげたりして、神によって気前良くふところにいれてもらえます。これは金銭や物質的なものというよりも、神からの祝福や霊的な財産のことだと思います)。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである』

 

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(相手の嫌な面に目がむいてしまったときに、では自分はどうだろうかとふりかえると、たいがい自分もそうした一面をもちあわせていて、苦々しい思いにかられることがしばしばおこります。相手を罪にさだめようとしたところで、それと同じ罪を自分もおかしてきているので、惨(みじ)めになってしまうのです。そしてこういう想いを何度もあじわっているのに、またくり返してしまう自分がいたりします。結局のところ自分を救ってくれるのは神しかいないと思い知らされるわけです。どうか一人でも多くの方に、上記のみことばがとどき、神のめぐみに感謝していくことができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない

2021年9月14日

 

『 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない 』

 

(今回は、求める者には、だれにでも与えなさい、ということについてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・6章の27~36節より

『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱(ぶじょく)する者のために祈りなさい。あなたの頬(ほほ)を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる(=自分を愛してくれる)人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを(=貸したものを)返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報(むく)いがあり、いと高き方の子(=神の子)となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである(=神は、彼らが悔いあらためるのを忍耐して待っておられます)。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい』

 

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(聖書がつげる愛はとても深いものです。すこしでも多く実戦して、神の愛を世にあらわしていきたいと思います。どうか一人でも多くの方に、上記のみことばがとどきますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

わたしが(=キリストが)来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである

2021年9月12日

 

『 わたしが(=キリストが)来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである 』

 

(今回は、クリスチャンの皆が、自分が罪人であるのを自覚して悔いあらためている、ということについてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・5章の31~32節より

『イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて(=すなわち世界中の人々をまねいて)悔い改めさせる(=神へとこころをむけさせる)ためである」』

 

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(人はだれもが罪人です。これは犯罪歴がないからというような話ではありません。完全な正義をまっとうされている神の目から見て、こころの中までも見られた上で判断されるものなのです。ですから、自分は神のさばきとは関係がないと決めつけずに、立ちどまってみてください。人はキリストをとおらずには、けっして神の怒りをまぬがれることはなく天国にはいれないのです。どうか一人でも多くの方が、自分が罪人であるのをうけいれて、悔いあらためることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい

2021年9月10日

 

『 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい 』

 

(今回は、キリストからの宣教命令についてふれたいと思います)

 

・マタイによる福音書・28章の18~20節より

『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を(=世界中の人々を)わたしの弟子にしなさい。彼らに父(=父なる神)と子(=子なるキリスト)と聖霊(=神の霊)の名によって洗礼を授け(=これはいまでは、おもに牧師のはたらきの一つとなっています)、あなたがたに命じておいたこと(=聖書の内容)をすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」』

 

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(このようにわたしたちクリスチャンは、世にむかってキリストのことを言いあらわしていかなければなりません。どうか一人でも多くの方が、聖書のことばに耳をかたむけ、神の家族となって天国で再会できますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)

だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す

2021年9月8日

 

『 だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す 』

 

(今回は、信仰をかくさずにおもてに言いあらわしなさい、ということについてふれたいと思います)

 

・マタイによる福音書・10章の32~33節より

『だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間である(=キリストへの信仰がある)と言い表す者は、わたしも天の父(=神)の前で、その人をわたしの仲間である(=罪がゆるされている者、天国にはいれる者である)と言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者(=不信仰者)は、わたしも天の父の前で、その人を知らない(=罪がゆるされていない者、天国にはいれない者である)と言う』

 

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(自分がキリストを信じているのに、それを周りにかくしているとするなら、その信仰は見なおす必要があります。なぜならわたしたちは、自分がキリストのしもべであることを言いあらわし、キリストのことを世にひろめる使命をさずかっているからです。どうか一人でも多くの方に、キリストが救い主(=メシア)であることをつたえ、天国で再会できますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)