聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の6章・全文(解き明かし)

2020年7月5日

 

『 マルコによる福音書の6章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは6章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・6章の1~6節より

 

『イエスはそこを去って故郷(=ナザレ)にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなこと(=神の国についてや、病をなおす奇跡など)をどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工(だいく)ではないか(=キリストの父であるヨセフは大工でしたので、宣教をする前のキリストもそれを手伝っていたのだと思います)。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか(=キリストの兄弟が挙げられていますが、この “ユダ” は、キリストの弟子の “ユダ” とは別人です)。姉妹たち(=キリストには姉妹もいました)は、ここで(=ナザレで)我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた(=このようにナザレの人々は、キリストを神とは認めず、自分たちと変わらない人間であるとしか見ることができなかった)。イエスは、「預言者(=神からの啓示をつたえる者)が敬(うやま)われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた(=これは近しい人ほど、その人の過去や生い立ちを知っているので、あるときを境に神の使命をおびたその人を、容易には受け入れられないということ)。そこでは(=ナザレの会堂では)、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった(=キリストは、たとえ故郷であっても、信仰のない者に対しては奇跡をおこなわなかったということ)。そして、人々の不信仰に驚かれた』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・6章の6~13節より

 

『それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人(=弟子)を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた(=宣教をさせた)。その際、汚(けが)れた霊に対する権能(=悪霊を追いだす権威)を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯(おび)の中に金も持たず、ただ履物(はきもの)は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた(=彼らには、神がついているので、旅先でこれらについて困ることはないということ)。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい(=これは弟子たちを受けいれた家のことです)。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい(=弟子たちをこばんだという証拠が、神の中にのこされることになります)。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした(=あぶらとは薬のことですが、ここでは神が介入されて病をなおしたということだと思います)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・6章の14~20節より

 

『イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王(=ヘロデとはイドマヤ人で、ローマの後ろ盾によってユダヤの王に在位していた人物)の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤ(=旧約聖書にでてくる預言者)だ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者(=モーセが預言していた預言者)だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており(=これは兄弟の妻を奪ったということ)、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである(=ヨハネが正しいことを指摘したからである)。そこで、ヘロディアは(=ヘロデが兄から奪った妻は)ヨハネを恨み(=これは彼女が、王の妻になれたことに満足していたため、いまある地位を失うことになりはしないかとうらんでいたということ)、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人(=神からの使者)であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・6章の21~29節より

 

『ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会(えんかい)を催(もよお)すと、ヘロディア(=ヘロデ王が、自分の兄弟から奪った妻)の娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に(=ヘロディアに)、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆(ぼん)に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退(しりぞ)けたくなかった。そこで、王は衛兵(えいへい=配置されている兵)を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた(=このようにヘロデは、洗礼者ヨハネを殺してしまいました)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・6章の30~36節より

 

『さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたこと(=彼らはキリストの指示をうけて、宣教にでかけていました)を残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇(ひま)もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉(いっせい)に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり(=キリストも弟子たちの舟に一緒に乗っていたのだと思います)、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊(=さまよっているひつじのこと。ここでは信仰のない群衆をこうたとえている)のような有様を深く憐れみ(あわれみ=気の毒に思う、また同情する)、いろいろと(=神からの良い知らせ、福音を)教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう(=ちなみにここには成人男性だけで五千人いましたので、女性と子供を合わせればさらに多くがいたことになります)」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・6章の37~44節より

 

『これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオン(=200日分の労働賃金に相当)ものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂(さ)いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑(くず)と魚の残りを集めると、十二の籠(かご)にいっぱいになった(=のこりもののほうが、最初にあったパン五つと魚二匹の量よりもふえています)。パンを食べた人は男が五千人であった(=このように神は、自在に “物” を生みだすことができるのです)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・6章の45~52節より

 

『それからすぐ、イエスは弟子たちを強(し)いて(=あえて)舟に乗せ、向こう岸のベトサイダ(=ガリラヤ湖の北東の町)へ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事(=これはキリストが5つのパンと2匹の魚を裂(さ)き、群衆にわけあたえたあとで、その食べのこりをかごに集めてみたら、かえって増えていたという出来事のこと)を理解せず(=キリストが神であり、その神には不可能がないということを理解せずに)、心が鈍くなっていたからである』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・6章の53~56節より

 

『こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地(=ガリラヤ湖の北西の土地)に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた(=このようにキリストがされていた奇跡が、うわさになってすでに広まっていたということ)。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた』

 

(次回は7章を見ていきたいと思います)

マルコによる福音書の5章・全文(解き明かし)

2020年7月4日

 

『 マルコによる福音書の5章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは5章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・5章の1~10節より

 

『一行は、湖の向こう岸(=ガリラヤ湖の東、現ヨルダン)にあるゲラサ人(=異邦人のことです。聖書ではユダヤ人以外を異邦人と呼びます)の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚(けが)れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖(くさり)を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々(たびたび)足枷(あしかせ=足の自由をうばう刑具)や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕(くだ)いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた(=このように悪霊には、人を狂(くる)わせる力があります)。イエスを遠くから見ると(=悪霊にとって住みごこちのいい領域に、キリストが侵入してきたのを見ると)、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ(=悪霊は、このように人間とちがって、キリストが神であることを一瞬で見抜きます)。後生だから(ごしょう=お願いだから)、苦しめないでほしい(=悪霊はまた、神の圧倒的な力も知っています。神のみこころ一つで、底なしの淵(ふち)のような暗闇に、とじこめられるのを知っていたのです(ユダ1-6))。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン(=レギオンとは、ローマ軍の大勢でなす軍団のことです)。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・5章の11~20節より

 

『ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚(けが)れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ(=これは底なしの淵のようなところに送られるぐらいなら、豚の中のほうがマシだということ)」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ(=ここでは豚がおぼれ死んだと書かれていますが、その後、悪霊たちがどうなったのかまでは、聖書にふれられていません。ただ少なくともキリストがこの場におられるあいだは、彼らはそう身動きがとれなかったものと思います)。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオン(=悪霊の大群のこと)に取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった(=悪霊がとりついていて、だれも近づけなかった人が、キリストの言葉一つで、正常になっていることに恐ろしさを感じた)。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした(=彼らは、神のなさったわざを知り、そのキリストが目の前にいるというのに、自分たちの生活を含めて、なにかしらを変えられるのを拒否したということ)。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたい(=弟子になりたい)と願った。イエスはそれを許さないで(=これはおそらく彼が異邦人であったために、彼を弟子にくわえてしまうと、ユダヤ人に対しての宣教に、影響がでてしまうのを考慮されたのだと思います。当時のユダヤ人は、神の民ではない異邦人を、敵視する傾向がありました)、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐(あわ)れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方(=現ヨルダン)に言い広め始めた。人々は皆驚いた』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・5章の21~34節より

 

『イエスが舟に乗って再び向こう岸に(=なじみのカファルナウム側に)渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長(=会堂でのユダヤ人の集会、礼拝などをとりしきる者)の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか(=これは、キリストはご自身にふれた女がだれであるのかわからないのではなく、こう尋ねることでその女と会話をし、彼女の信仰をひきだそうとされているのだと思います)」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか(=これは群衆にもみくちゃにされていたので、キリストはだれからもふれられて当然の状態にあったということ。しかしここでのキリストは、病を治してもらいたいとの意志をもって、ふれてきたのはだれかと尋ねられているのです)。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し(=信仰が、明確にひきだされたがゆえの行為です)、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・5章の35~43節より

 

『イエスがまだ話して(=群衆に囲まれながら話して)おられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは(=会堂長であるヤイロの娘は)亡くなりました。もう、先生を(=キリストを)煩(わずら)わす(=手間をとらせる)には及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは(=弟子の三人のほかは)、だれもついて来ることをお許しにならなかった(=キリストは、十字架後の伝道のことを考えてのことでしょうか、とくにこの三人により多くの経験をあたえておられました)。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ(=キリストは、死から甦らせるのを前提で話されているので、一時的に眠っているにすぎないという意味でこう述べられています)。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム(=これはアラム語です)」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ(=キリストは神の福音を広めている一方で、こうした大衆の目がないところでなさったご自分の奇跡を、まわりに言い広めないようにと言われることがあります。わたしたちからしたら、キリストがなさる奇跡も神のみわざなのですから、どんどん広めればいいのにとも思ってしまいますが、キリストからしたらそういうものではなく、あくまで神の福音とご自分がなさる奇跡とはべつのものとして、線引きをされていたのかもしれません。キリストには、ご自分が目立とうとか、崇められようとか、そういったご自分の栄光を求める気持ちはなく、いつも父なる神の教えを説き、そして父の栄光を求めておられました(ヨハネ7-16~18)。もちろん大衆の前で病をなおされるときは、いやでもキリストが奇跡めいた人として広まってしまいますが、キリストの中には、神のしもべとして、人間につかえるためにつかわされたのだという使命(ヨハネ10-45、フィリピ2-6~8)に、ただ忠実であろうとしている、そういうお姿があるだけなのかもしれません。ですからキリストがだれにも知らせないようにと言うときには、本当にだれにも知らせなくてよいのです。すべては神のみこころにもとづいているのです)、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた』

 

(次回は6章を見ていきたいと思います)

マルコによる福音書の4章・全文(解き明かし)

2020年7月2日

 

『 マルコによる福音書の4章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは4章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・4章の1~9節より

 

『イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔(こはん=湖のほとり)にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った(=ここでの “たね” とは、“神の言葉” のことです)。蒔いている間に(=神の言葉をひろめているあいだに)、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨(いばら)の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた(=この種まきのたとえについては、今回の記事の4章13~20節のところでくわしく注釈をしています)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の10~12節より

 

『イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々(=キリストを信じようともしない人々)には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って(=神の元に立ち帰って)赦されることがない』ようになるためである(=聖書には多くの “たとえ” がでてきますが、それは、ある人にとっては認めたり、理解したりできないように、あえてそのように書かれているのです。聖書はときにとてもむずかしい書物ではありますが、神がわたしたちにあたえてくださっているのですから、わたしたちは感謝をもって、真摯に向き合っていくことが大切だと思います)」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の13~20節より

 

『また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉(みことば=神の言葉。聖書の言葉)が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタン(=上記では “鳥” と書かれています)が来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん=困難で苦しいこと)や迫害が起こると(=上記でいう、“日が昇ると焼けて” に相当)、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨(いばら)の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩(わずら)いや富(とみ)の誘惑、その他いろいろな欲望(=快楽への欲求など)が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実(=実とは、愛であったり、善いおこないであったり、より具体的には、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったことなど。ガラテヤ5-22~23)を結ぶのである」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の21~23節より

 

『また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは(=キリストが、神の国についてのみことばを語られるのは)、升(ます=四角い容器)の下や寝台(しんだい)の下に置くためだろうか。燭台(しょくだい=ろうそくを立てる台)の上に置くためではないか(=キリストが語るみことばは、人の目にふれないようにではなく、人の目につくように語られているということ)。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公(おおやけ)にならないものはない(=キリストは神の国についての秘密を、“たとえ” を用いて語り、あえてその内容を簡単につかめないようにされています。これは不信者には理解できないように、神の国の秘密を隠されているからです。しかしこれらは不信者に対して隠されているのであって、わたしたち信者にはその中身をあらわにすることができるし、そこに秘められている神の国の様子や、その到来までの神のご計画なども、知ることができるようになっているのです)。聞く耳のある者は聞きなさい(=だからキリストの言葉を注意して聞き、正しく受けとめなさい)」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の24~25節より

 

『また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい(=キリストがどんな意味をこめて語っているのかに注意しなさい)。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り与えられ(=“自分の量る秤で” とは、キリストから聞いた話を、どのように受けとめるのかということ。そしてその受けとめ方によって、それに応じた報いがあたえられるということ)、更にたくさん与えられる(=良い受けとめ方によって、さらにたくさんの報いがあたえられます。たとえば神からの愛や聖霊の満たしを受けたり、ますますみことばを理解できるようになったり、そうして神が望まれている生き方に、より近づいていけるようになります)。持っている人は更に与えられ(=神からのよい報いを受けている人は、さらにあたえられるという、よい循環に入っていくことになります)、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる(=キリストの言葉を軽く見たり、みくびることで理解がともなわない人は、みことばの教えからますます遠ざかり、あたえられていた神の恵みも失うことになります。こうして神の目から見る命や富を失い、ますます悪循環におちいっていくことになります)」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の26~29節より

 

『また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである(=神の国に入れる人たちは、次のような経過をたどります)。人が土に種を蒔いて(=人が神のみことばを信じるようになって)、夜昼(よるひる)、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが(=信仰が成長するが)、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり(=これは信仰者の努力などによるのではなく)、まず茎(くき)、次に穂(ほ)、そしてその穂には豊かな実ができる(=その本人によるのではなく、聖霊の力によって、徐々にキリストに似通った者に変えられていくということ。言いかえるなら神がそうしてくださるということです)。実が熟すと(=時がくると。これは総じて世のおわりがくるとということだと思います)、早速、鎌(かま)を入れる。収穫の時が(=神の国にまねきいれるときが)来たからである」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の30~32節より

 

『更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか(=信仰をもつ人たちによっておこっていく神の国を、どのようにたとえようか)。それは、からし種(からしだね=アブラナ科の種のこと)のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが(=実際、2000年前に使徒たちによっておこされた教会も、まさに小さいところから出発しました)、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る(=キリストを信じている者たちの群れは、どんどん大きくなっていきます。しかしここで “葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど” という言葉があります。これは、“鳥” が “サタン” をあらわしていますので、たとえ成長が順調であっても、よい面ばかりではないということです。成長の過程にまぎれて、必ずサタンが入りこんでくることになります。これは史実でも、ローマ帝国キリスト教を国教にして、多くの異教徒を一緒くたにキリスト教徒にしてしまい、教会全体を堕落させたのにも見られるとおりです。ここでのキリストは、信仰の足を引っぱるものの存在を警告なさっています)」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の33~34節より

 

『イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた(=キリストはなにもかもを、むずかしいたとえで話されたわけではありません。話し相手に応じて、工夫されていました。ですから耳をかたむけさえすれば、必ず得るものがあるように話してくださっていたのです)。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された(=この弟子たちが、キリストの十字架の死後に、伝道を開始することになります。また彼らがのこした福音書が、聖書におさめられることになりました。これによっていまのわたしたちは、神の霊のたすけもあって、世の “真理” を知ることができているのです)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・4章の35~41節より

 

『その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕(こ)ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸(みずびた)しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも=船の後部)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ=波がなくなり、水面が静まること)になった(=このようにキリストは、自然に対しても権威をもっておられます)。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った(=この時点での弟子たちは、キリストが体をいやす奇跡などは目にしていましたが、キリストが神ご自身であるということまでは、まだ悟りきれていなかったのだと思います。それゆえにキリストが自然をも意のままに従わせてしまったことに、恐れをいだいています)』

 

(次回は5章を見ていきたいと思います)

マルコによる福音書の3章・全文(解き明かし)

2020年6月29日

 

『 マルコによる福音書の3章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは3章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・3章の1~6節より

 

『イエスはまた会堂(=礼拝をおこなう場所)にお入りになった。そこに片手の萎(な)えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日に(=労働をしてはならない日に)この人の病気をいやされるかどうか、注目していた(=キリストが、この人の腕を治したら、安息日に労働をしたと見なして、訴えようとしていたということ)。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか(=もちろん安息日であろうと、人に善いことをするのは、神のみこころに適っています。ここでの人々の考えこそが誤っているのです。しかし長年にわたって、神の律法を歪曲(わいきょく)してきた彼らには、こうした当たり前のことが見えていません。それゆえにキリストは、こう尋ねているわけです)。」彼らは黙っていた(=彼らには、キリストと議論しようという意志すらなく、ただひたすらキリストの言葉じりをとらえ、訴える口実をさがしていました)。そこで、イエスは怒(いか)って人々を見回し、彼らのかたくなな心(=善悪の区別も見失い、自分をただしいと思っている彼らの心)を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派(=これは歪曲した律法でもって民衆をとりしきっている一派のことです。そのためにこうしてキリストを訴えようと、監視しにきていました)の人々は出て行き、早速、ヘロデ派(=ヘロデは、ローマ皇帝の後ろ盾によってユダヤの王に在位している人物です。そのヘロデを支持している一派のことです)の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた(=このように聖書にくわしく、メシアの到来をまちわびていたはずの彼らが、神であり、メシアでもあるキリストを殺そうという流れになっています。ここに人間の傲慢(ごうまん)さというものが如実(にょじつ)にあらわれているように思います)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・3章の7~12節より

 

『イエスは弟子たちと共に湖(=ガリラヤ湖)の方へ立ち去られた(=ファリサイ派、ヘロデ派の者たちが、キリストに殺意をいだきだしたために、一度彼らから距離をとられています。マタイ12-14~15)。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤエルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚(けが)れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ(=このように悪霊は、キリストが御子(みこ)であることに、はっきりと気がついています)。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒(いまし)められた(=キリストは、神の福音がただしく広まることは望まれていますが、悪霊などを発端にして、うわさが一人歩きをし、嘘の情報が広まっていくような事態は、望まれていませんでした。もしそうした嘘の情報が広まれば、余計なあらそいなども呼びこんでしまうかもしれません。キリストはこうしたお考えのもとで、言いふらさないようにと言われています。マタイ12-15~21、イザヤ42-1~4なども参照のこと)

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・3章の13~19節より

 

『イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒(=重要な役割を果たしたキリストの弟子たち。この中のマタイやヨハネなどは、新約聖書の著者となっています)と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣(はけん)して宣教させ(=神の福音を人々につたえさせ)、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党(=ユダヤ教の一派)のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである(=このユダが、ユダヤ人の権力者たちに、キリストを売りわたすことになります)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・3章の20~30節より

 

『イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内(みうち=家族や親類)の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである(=これはキリストが数々の奇跡をおこなっていることに対し、正気の人間ではないとのうわさが立っていたということ。これを聞きつけた身内の人たちが、世間体などを気にしたのでしょう、キリストをとりおさえにきています)。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブル(=サタンのこと)に取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭(かしら)の力(=サタンの力)で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう(=どうしてサタンが自分で自分を追いだすような真似(まね)をするだろう、ということ。文脈上では、どうしてサタンが、自分の仲間である悪霊たちを追いだす真似をするだろう、といったところでしょうか)。国が内輪(うちわ)で争えば(=仲間同士であらそえば)、その国は成り立たない。家が内輪で争えば(=家族同士であらそえば)、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず(=分裂して立ち行かず)、滅びてしまう。」また、まず強い人(=ここでの “強い人” には、サタンをあてはめればいいように思います)を縛り上げなければ、だれも、その人の家に(=サタンが支配しているところに)押し入って、家財道具を(=サタンの支配下(=悪影響下)にある人々を)奪い取ることはできない(=とりもどすことはできない)。まず縛ってから、その家を略奪するものだ(=まずサタンを縛ってから、その支配下にあった人々をとりかえすものだ。ここではサタンをあてはめましたが、いずれにせよキリストはこうした要領で、まず強い悪霊に目をとめられてから戦われているものと思います)。はっきり言っておく。人の子らが(=キリストを信じる人々が)犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者(=これはキリストがされたことをこころから理解していながら、その上で神であるキリストのご性質を否定し、悪霊の力でおこなっている、などと結論づける者たちのことです。そもそも人間に、キリストがしてくださったことを、真の意味で理解させてくれるのは、聖霊のはたらきによるものです。そのキリストがされた御業(みわざ)やただしさをこころから理解した上で、メシアとしてのご性質を拒否し、それに逆らってでも敵対していくのであれば、それは聖霊を冒涜していることになると、ここでは述べているのだと思います)は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである(=律法学者たちは、聖霊のはたらきを(=キリストがおこなった奇跡を)じかに目撃していながら、それを悪霊のしわざだと発言しました。このように神のはたらきを悪魔のものと見なし、聖霊を冒涜した彼らの罪は、永遠にゆるされないということです)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・3章の31~35節より

 

『イエスの母(=聖霊によって身ごもり、キリストを産んだマリアのことです)と兄弟たち(=キリストの兄弟。マリアとその夫であるヨセフの子のことです)が来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた(=このようにキリストの家族は、大勢の人に加わってキリストの宣教を聞くことはせずに、むしろキリストを宣教の場から離そうとしています。この理由は、数々の奇跡をおこなっているキリストに対して、「あの男は気が変になっている」といったうわさが立っていたため、キリストが人前に立つのをやめさせたかったからになります)。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜(さが)しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、私の兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心(=神の教え、また神の願われること)を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ(=神のみこころをおこなう人こそが、キリストの本当の家族であるということ。キリストを信じる人たちには、聖霊がやどってくださいます。この聖霊が、わたしたちを善いおこないへと導いてくださるのです。たとえ身内であっても、キリストへの信仰がなく、みこころをおこなわないならば、神の家族になることはできないのです)」』

 

(次回は4章を見ていきたいと思います)

マルコによる福音書の2章・全文(解き明かし)

2020年6月26日

 

『 マルコによる福音書の2章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは2章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・2章の1~12節より

 

『数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家(=キリストご自身の家か、もしくは弟子のペトロの家)におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉(=神の言葉)を語っておられると、四人の男が中風(ちゅうぶ=手足にまひがあり寝たきり状態のこと)の人を運んで来た。しかし、群衆に阻(はば)まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床(とこ)をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰(=これはキリストを信じていたからこそ屋根に穴をあけて、病人をつり降ろしまでしたこと)を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者(=神の律法にくわしいが、それを歪曲(わいきょく)してしまっている者。ここではキリストが何者であるのかをさぐりにきていました。申命記13-13~15)が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜(ぼうとく)している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか(=彼らは、キリストを神とは認めていないので、キリストが “子よ、あなたの罪は赦される” と述べたことに対して、キリストを口だけの無礼な者として、神への冒涜だととらえています。しかし実際にはキリストは神なのですから、こう発言をする権限があったことになります)。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた(=キリストは人の心の考えを見抜くことができます)。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床(とこ)を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか(=ここは、『あなたの罪は赦される』と言うことのほうが、むずかしいことになるかと思います。なぜなら神は、人間の病を治されるときには、“代価” を要求されませんが、人間の罪を赦されるときには、キリストの十字架という “代価” を要求されました。ここに着目する以上、どちらを神が重く考えているかといえば、それは罪に関するもののほうであり、キリストが『あなたの罪は赦される』と言うときには、決して軽い気持ちでは話されていないものと思います。ただしこれは神のご立場から見た場合であって、人間的な視点に立てば、そうとはかぎりません。なぜなら難病の患者を、この場でいますぐ立たせるなどは到底できないからです。こうしたやる前から不可能とわかっている結果を求められるぐらいなら、よほど『あなたの罪は赦される』と言ってしまうことのほうが、簡単であるかもしれません。そもそも罪が赦されたことの証拠は、相手に示しようがないので、口先ではなんとでもいえてしまうからです。ただここで見誤ってはならないのは、中風の人を立たせることも、罪を赦すことも、このどちらもが神の領域であるということです)。人の子が(=キリストご自身が)地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう(=この場で示してみせよう)。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した(=このように人々からすれば、まず不可能だと思われていた中風を治してみせることで、だれの目にもわかりやすいかたちで、ご自身が神であることを示されています。こうすることで間接的に、罪をも赦すことができるというご自身の権威(=神としての権威)を、人々に知らしめたということです。これは罪が赦されることよりも、病気が一瞬で治ることのほうが困難だと考えていた人々にとっては、よりいっそうのおどろきと、説得力があったものと思います。ただこころのかたくなな律法学者たちは、今後ますますキリストと対立していく道をたどることになります)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・2章の13~17節より

 

『イエスは、再び湖(=ガリラヤ湖)のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた(=福音を語られた)。そして通りがかりに、アルファイの子レビ(=キリストの弟子になるマタイのことです。彼は “マタイによる福音書” を書いた人物です)が収税所(しゅうぜいじょ=税金をとりたてるところ。当時、ユダヤ人が住んでいる地域は、ローマ帝国支配下にあり、そのためローマに収める税金を、マタイなどのユダヤ人が集めていました)に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った(=税をとりたてる安定した職を、この場で放棄して、キリストに従ったということ)。イエスがレビ(=マタイ)の家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人(ちょうぜいにん=税をとりたてる人)や罪人(=遊女(ゆうじょ)など)もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者(=ファリサイ派は、ユダヤ教(=旧約聖書を信じている)の一派で、多くの律法学者が属している。旧約聖書にくわしいため、本来メシア(=救い主)の到来には敏感であったはずの彼らですが、いざメシア(=キリスト)が目の前にあらわれてみると、そのキリストをメシアだとは認めずに、のちのち殺してしまおうとするほどの敵意をいだいていくことになります)は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った(=彼ら律法学者からすれば、もしキリストが神であるなら、その神が、彼らが見下している徴税人や罪人と食事をしていることが、どうしてものみこめなかった)。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人(=信仰のある者)を招くためではなく、罪人(=信仰のない者)を招くためである」』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・2章の18~20節より

 

ヨハネ(=洗礼者ヨハネのこと)の弟子たちとファリサイ派の人々は、断食(=食事を断つこと。これはレビ記16-29を参照のこと)していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに(=レビ記では、第七の月(=現在の9月から10月に相当)の十日に断食することになっています。ここでの彼らは御心(みこころ)に適ったものとして、定められた日以外にも断食をおこなっていました。ルカ18-12)、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿(はなむこ=これはキリストご自身をこうたとえている)が一緒にいるのに(=神であるキリストがこうして地上におりてこられ、一緒にいてくださっているのに)、婚礼の客は(=結婚式に呼ばれている客は。ここでは弟子たちのことです。彼らはこうしてキリストから弟子に選ばれ、食事をともにしているという、まさにお祝いごとの中にいるのです)断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない(=キリストが一緒にいてくださるのに、それを喜ばずにわざわざ食事を断って、身をいましめているときではない)。しかし、花婿が奪い取られる時が来る(=キリストが人々の罪のために、身代わりとして命を落とすときがくる。これはご自身の死を暗に示されています)。その日には、彼らは断食することになる(=彼らは悲しみに暮れ、断食することになる)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・2章の21~22節より

 

『だれも、織りたての布から(=新しく知ることとなったキリストの教えから)布切れを取って(=その教えの一部を切りとって)、古い服に継ぎを当てたりはしない(=古い自分の考えや生き方に混ぜてはならない)。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる(=ますます生きづらくなり、わるい生き方になってしまう)。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない(=これも先と同じ。新たに知ったキリストの教えを、かつての考えや生き方に混ぜてはならない)。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる(=それではキリストの教えまでが活かせなくなる)。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ(=キリストの教えは、古い生き方をみな捨てた上で、心を新たにして受け入れるべきである)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・2章の23~28節より

 

『ある安息日(=あんそくびとは、仕事を休み、神に礼拝を行う日のことで7日ごとにおとずれます。これは律法で定められていることです)に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘(つ)み始めた(=空腹だったのだと思います。もちろんこれは罪ではありません)。ファリサイ派(=キリストをみとめていないユダヤ教の一派)の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか(=彼らは、麦の穂をいくつか摘むことさえ、仕事とみなして禁じていました。これは律法に、細かいルールをつけ足し、彼らが民衆をとりしまる道具にしていたということです)」と言った。イエスは言われた。「ダビデ(=かつてのユダヤの王。この王は、ユダヤ教徒からも尊敬されていました)が、自分も供の者たち(=お供していた者たち)も、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか(=ダビデについて書かれている旧約聖書を、一度も読んだことがないのか。なお旧約聖書は、ユダヤ教聖典です)。アビアタルが大祭司(=神に関する行事をとりしきる者)であったとき、ダビデは神の家(=幕屋(まくや))に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供(そな)えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか(=ダビデは、神への信仰があった王です。その彼が、律法よりも、部下の命を守ることを優先し、神にそなえていたパンを、皆にわけあたえたということ。そして神はこのことをゆるされました。部下を守るという目的があったからです)。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(=これは、律法は人のためにあるのであって、人が律法のためにあるのではないということ)。だから、人の子(=キリスト)は安息日の主(しゅ)でもある(=本来、律法を正しく管理して、その上にいるのが人間です。そしてその人間の上におられるのが神です。当然神は、律法よりも上の存在であり(=そもそも律法は神がつくられました)、律法に対しての主権を持っておられます。ここではこうしたことを見失っているファリサイ派の人々に、キリストがこう表現することでつたえておられます)」』

 

(次回は3章を見ていきたいと思います)

マルコによる福音書の1章・全文(解き明かし)

2020年6月23日

 

『 マルコによる福音書の1章・全文(解き明かし) 』

 

(今回より “マルコによる福音書” の解き明かしをおこなっていきたいと思います。ここは現在では16章にわけられていますので、それにもとづいて16回にわけて記事にしていくことにします。なおマルコは、十二使徒ではありませんが、十二使徒のペトロの信仰上の息子にあたります(=ペトロ1:5-13を参照のこと)。また福音書とは、キリストの生涯やその教えを記した書のことです)

 

・マルコによる福音書・1章の1~8節より

 

『神の子イエス・キリストの福音の初め(=ふくいんとは、喜ばしい知らせのことです)。預言者イザヤ(=よげんしゃとは、神からの啓示をうけて、その教えや未来に関することなどをつたえる者のこと。イザヤはキリストより700年ほど前に活動した人物になります)の書に(=旧約聖書イザヤ書に)こう書いてある。

「見よ、わたしは(=神は)あなたより先に使者を遣わし(=キリストが地上にあらわれるより先に洗礼者ヨハネを遣わし)、あなたの道を準備させよう(=キリストが宣教しやすいように仕向けさせよう)。荒れ野で叫ぶ者の声がする(=荒れ野でこう叫ぶヨハネの声がする)。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ(=キリストの教えが広まりやすいように、そのさきがけとなって準備を整えよ』」

そのとおり(=イザヤ書にある預言のとおり)、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼(=罪を清めるために身を水にひたす儀式のこと)を宣べ伝えた。ユダヤの全地方(=死海の西側一帯)とエルサレム(=かねてからのイスラエルの中心地)の住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣(けごろも)を着、腰に革の帯(おび)を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方(=キリスト)が、後から(=もう間もなくで)来られる。わたしは、かがんでその方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない(=神であるキリストをこうたたえています)。わたしは水で(=ヨルダン川の水で)あなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊(=神の霊)で洗礼をお授けになる(=キリストは信仰をいだいた者を、聖霊によって清められます。この洗礼をさずかった者はみな、神の子とみなされるのです)」

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の9~11節より

 

『そのころ(=ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたころ)、イエスガリラヤのナザレ(=イスラエル北部のガリラヤ地方にある村のことです。キリストの故郷でもあります)から来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた(=このように神であるキリストが、実際に洗礼を受けることの大切さを示されました)。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて(=父なる神がおられる天がさけて)“霊(=神の霊)”が鳩(はと)のように御自分に降(くだ)って来るのを、御覧になった(キリストご自身がご覧になった)。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が(=父なる神の声が)、天から聞こえた(=なお今回のところには、父なる神、子なるキリスト、神の霊である聖霊、という神の三位一体(さんみいったい)を成している、三つの位格が登場されています。これら三つの位格は切っても切れない関係にあり、神は唯一でありながらも、父、子、聖霊という三つの位格において存在されているのです)」

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の12~13節より

 

『それから、“霊(=聖霊)”はイエスを荒れ野に送り出した(=これは以下にでてきますが、聖霊が意図して、キリストに悪魔の誘惑を受けさせるために荒れ野へ導かれたということ)。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた(=この世を支配しているのは悪魔であり、かつサタンはキリストが神の子であるのを知っていたので、世の権力や富でほのめかして、キリストに誘惑をもちかけてきました。もちろんキリストはこれらの誘惑を拒み、神への信仰を示されました)。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた(=荒れ野ですから建物などはなく、一日中野生の動物たちと同じ条件下で過ごされていたということ。おそらくこのヨルダン川周辺には、ジャッカルなどの肉食獣も生息していたものと思います。そのため天使たちが、人間の体をもって地上に降り立ったキリストをお守りしていたということです)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の14~15節より

 

ヨハネが捕らえられたのち(=洗礼者ヨハネは、ヘロデ王(=当時のユダヤの王)に対して、ヘロデが自分の兄弟の妻と結婚したことは、神の律法に反していると述べました。これを不服としたヘロデはヨハネを捕らえ、牢に入れていたのです)、イエスガリラヤへ行き、神の福音を(=神からの喜ばしい知らせを)宣べ伝えて、「時は満ち、神の国(=永遠の御国(みくに))は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(=ここには “悔い改めて” という言葉がでてきています。わたしたちは神の恵みにより、信仰によって救われていますが、この信仰がたしかなものであるとき、その人は必ず悔い改めの心を持つようになっていくのです)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の16~20節より

 

『イエスは、ガリラヤ湖(=イスラエル北部にある湖)のほとりを歩いておられたとき、シモン(=十二使徒のペテロのこと)とシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた(=ここでの “人間をとる” とは、それまで神に信仰のなかった者を、信仰のある者へと導くことをあらわしています。要するに、人間をとる=人に神を信じるように仕向けさせる、といったところでしょうか。ですので、ここでの人間をとる “漁師” とは、人間を神へと向けさせる “伝道師” のことを指しています)。二人はすぐに網を捨てて従った(=この場でただちにキリストの弟子になった)。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが(=ヤコブヨハネ十二使徒です。その父がゼベダイだということ)、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇(やと)い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った(=この二人もこの場でただちに弟子になったということ)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の21~28節より

 

『一行はカファルナウム(=ガリラヤ湖の北西の岸にある町)に着いた。イエスは、安息日(=仕事を休み、神に礼拝を行う日のことで7日ごとにおとずれる)に会堂(=礼拝を行う場所)に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者(=神が定めた律法を説く者。ただしこの当時の律法学者は、モーセ(=かつてのイスラエルの民の指導者)のときの律法を歪曲(わいきょく=ねじ曲げること)してしまっていました)のようにではなく、権威ある者として(=権威に満ちたご自身の言葉で)お教えになったからである。そのとき、この会堂に汚(けが)れた霊(=悪霊のこと。これは堕落した天使のことです)に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ(=神の御子(みこ=神の子)だ。つまりこの悪霊は、キリストが神の御子であることを知っている)。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ(=悪霊でさえが聞き従うほどの権威を、キリストが示されたということ)。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々(すみずみ)にまで広まった』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の29~34節より

 

『すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレ(=キリストの弟子)の家に行った。ヤコブヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめ(=シモンの妻の母)が熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした(=一瞬で病(やまい)が治ったということ)。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし(=治し)、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである(=悪霊は、キリストが神の御子であるのを知っていたということ)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の35~39節より

 

『朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は(=弟子たちは)イエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜(さが)しています(=これは、病を治せるキリストに会いたがっているということ)」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する(=神の福音を言い広める)。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の40~45節より

 

『さて、重い皮膚病(=当時の人々には治せない皮膚病)を患(わずら)っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心(みこころ)ならば(=神のご意志がここにあるならば)、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった(=人間には治せない病をキリストが治したということ。これはほかならぬ神が実在していることを、キリストが示したことになります)。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司(=神に礼拝や供え物をささげる人)に体を見せ、モーセが定めたものを(=神がモーセに与えた律法で定めているものを)清めのために献げて、人々に証明しなさい(=口で言いふらさずに、掟(おきて)どおりの献げ物をすることで、神に病を治してもらったことを人々に示しなさい。ここでのキリストは、難病を治した神がおられるということを、神の律法に則ったかたちで、人々に証(あか)しされることを望まれていました)。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず(=うわさを聞きつけた者たちの、人だかりのために町に入ることができず)、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た』

 

 

(次回は2章を見ていきたいと思います)

キリストの十字架の死を、前もって定めておられた神について

2020年6月20日

 

『 キリストの十字架の死を、前もって定めておられた神について 』

 

(以下は、イザヤ書からの抜粋です。この書はユダヤ人であるイザヤが、いまから2700年ほど前(=すなわちキリストが地上にあらわれるよりも、さらに700年ほど前)に書きのこしたものです。ですからこの書の中で、地上にあらわれたキリストについてふれている箇所は、預言になっているということです。どうかみなさん、ほんとうの神がいるということを、下記をとおして知っていただければと思います)

 

イザヤ書・53章の1~10節より(=なおここは詩のような体裁で書かれていますので、1節ずつ行間をとって注釈をつけていくことにします)

 

『わたしたちの聞いたことを(=自分たちが殺したあのキリストが、よりによって神の御子(みこ)、メシアであったということを)、誰が信じえようか。主は御腕(みうで)の力を誰に示されたことがあろうか(=かつてエジプトからイスラエルの民を救った、神の偉大な力は、これまでだれにあらわされたことがあったというだろうか。これは要するに、自分たちがキリストの再臨をその目で見るまでは、あのキリストに神の力があたえられていたことに、気づかないということです。実際いまのユダヤ人の多くは、キリストに対して目がひらかれておらず、まだだれが救い主(=メシア)であるのかわからない状態にあるのです)。

 

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝(わかえだ)のように、この人は主の前に育った(=キリストは、決して恵まれていない環境の中でお育ちになりました)。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない(=なにか特別な容姿をしていたわけでもありません)。

 

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている(=キリストは奇跡をおこなわれても、ときには崖から落とされそうになったり、悪霊がとりついているとののしられたり、こころの痛みも経験されていました。キリストは、人間がかかえる病には、肉体的なものとこころのものとがあることを、熟知しておられました)。彼はわたしたちに顔を隠し(=キリストにはおごりたかぶるところがなく、信仰も無理におしつけることがありませんでした)、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 

彼が担(にな)ったのはわたしたちの病(=人間の肉体的、また精神的な病)、彼が負ったのはわたしたちの痛み(=わたしたちがうけるべき裁き)であったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから(=キリスト自身に罪があり、その罪のゆえに裁かれたから)、彼は苦しんでいるのだ、と。

 

彼が刺し貫かれたのは(=十字架の上で釘(くぎ)を打たれたのは)、わたしたちの背きのため(=わたしたちが神から離れたため)であり、彼が打ち砕(くだ)かれたのは、わたしたちの咎(とが=罪)のためであった。彼の受けた懲(こ)らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(=罪に対する裁きから解放され、真の自由を得た)。

 

わたしたちは羊の群れ、道を誤り(=神に目を向けなくなり)、それぞれの方角に(=勝手気ままな方角に)向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に(=キリストに)負わせられた。

 

苦役(くえき)を課せられて(=キリストは十字架の前に、鞭打ちの拷問もお受けになりました)、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(=無実でありながら反論一つされませんでした)。

 

捕(と)らえられ、裁きを受けて(=十字架の刑を受けて)、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民(=イスラエルの民)の背き(=罪)のゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地(=わたしたちが生きているこの地)から断たれたことを。

 

彼は不法(=罪)を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者(=裕福な者)と共に葬(ほうむ)られた(=キリストは罪人として死を迎えたのですから、本来立派な墓にはいれる境遇にはありませんでした。しかし実際には、ユダヤ人議会のメンバーで、裕福だったヨセフという人物があらわれて、自分用につくっていた墓に、キリストをほうむることになったのです。なおこのユダヤ人議会のメンバーたちが、キリストを罪人に仕立てあげたのですから、ヨセフは彼らからしたら裏切り者にあたります。その彼がかねてよりつくっていた墓ということですから、その墓のある一帯には、やはり裕福な、他のユダヤ人議会のメンバーたちも墓をつくっていたのだと思います。その墓の一つに、場違いのようにしてキリストがほうむられることを、神はここで預言しているのです)。

 

病に苦しむこの人を(=人類の罪に対して胸を痛め、かつ一つの罪も犯したことのないキリストを)打ち砕こうと主は望まれ(=全人類の罪のいけにえとしてふさわしいものとされ)、彼は(=キリストは)自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が(=信仰のあるユダヤ人、また信仰のある世界中の人々が)末永く続くのを見る。主の望まれることは(=永遠の御国(みくに)の到来は)、彼の手(=キリストの手)によって成し遂げられる』

 

(以上が、イザヤ書に記されている、キリストの十字架に関するものです。なお本文は、新共同訳から引用をしています。詩のような体裁で書かれているため、わたしが言葉をおぎなって、解釈をしている(=意味をとおしている)部分があります。これらはもちろんそれが絶対にただしいというものではありませんし、その点はご理解いただければと思います。それではどうか一人でも多くの方が、聖書のみことばを受けいれて、神の家族に加わることができますように)