聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の9章(解き明かし)

2020年7月14日

 

『 マルコによる福音書の9章(解き明かし) 』

 

(それでは9章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・9章の1節より

 

『また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には(=十二人の弟子たちの中には)、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる(=これは次の9章2~8節でふれますが、ペトロ、ヤコブヨハネの三人のことを指しています。彼らはこの六日後に、とある山でキリストの姿が、神の国の栄光につつまれるのを目撃することになります。またとくにこのうちのヨハネにいたっては、この何十年後かに、千年王国や、永遠の御国(みくに=神の国)の幻をキリストから見せられて、それを黙示録として書きのこすまでは、決して死ぬことがありませんでした(=黙示録21、22章)。なおこの弟子のヨハネは、洗礼者ヨハネとは別人になります)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の2~8節より

 

『六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブヨハネ(=弟子のうちの三人)だけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人(=布を漂白する職人)の腕も及ばぬほど白くなった(=この世のものではなく、神の国に属した白さだということ。キリストは、神の栄光の輝きにつつまれていました)。エリヤがモーセと共に現れて(=エリヤは旧約聖書を代表する預言者であり、モーセイスラエルの民をエジプトから救い、神のお告げに従って律法をのこした人物です)、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋(=ちょっとした幕屋(=礼拝所)のこと)を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである(=三人の弟子たちは、キリストの姿が変わり、死者であるはずのモーセと天に上げられたはずのエリヤ(列王記 下2-11~14)の姿を目の当たりにしたために、なにが起こっているのか理解できず、恐れをいだいていたということ)。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け(=これは天の父なる神の声です。キリストは愛する御子(みこ)であり、その彼の教えや言葉に耳を傾けなさいということ)。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた(=エリヤとモーセは消え失せ、キリストも元の姿にもどっていたということ)』

 

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・マルコによる福音書・9章の9~11節より

 

『一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子(=キリスト)が死者の中から復活するまでは(=十字架にかけられることになって、一度死に、そこから復活するまでは)、今見たことを(=キリストとモーセとエリヤの三人が、栄光の輝きにつつまれていた光景のことを)だれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた(=これはまだ人々に広める時ではないということ)。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った(=弟子たちは、キリストが死んだりすることなく神の国をもたらしてくれると思っているので、そのキリストが一度死に、復活するということの意味をわからずにいます。言いかえるなら、メシア(=救い主)であるキリストが、いまあるローマ支配の状況を打ちこわしもせずに、死ぬはずがないと信じられずにいるのです)。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた(=これは旧約聖書・マラキ書3章に、神の国がもたらされる前に、神がエリヤをあなたがたの前に遣わす、との預言があるため、こう尋ねています。彼らには、キリストが死から復活するということへの混乱に加え、このエリヤが遣わされる件もまだ成就してないではないかとの思いがあるのです)』

 

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・マルコによる福音書・9章の12~13節より

 

『イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする(=たしかに預言されているように、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。ここでの “元どおり” とは、キリストがあらわれる前に、前もってエリヤが、神から離れたユダヤ人のこころを、また神に向かわせ、信仰を回復させておくということ。この言葉自体は、マラキ書3-23~24からの引用で、これはキリストの再臨にまつわる預言になっています。ここはむずかしいので先に結論を述べておきますが、以下でのキリストは、この再臨の前にあらわれるエリヤに対して、初臨(しょりん)の前にあらわれた洗礼者ヨハネをかさねあわせて語られています。要は信じる者にとっては、エリヤと同等のはたらきをヨハネの中に見ることができ、ある意味 “エリヤが来る” という預言の成就を、ヨハネをとおして体験できるようになっていたということです。ですからあとはメシアの到来だけを、こころ待ちにしていた状態にあったとも言えるのです)。それなら、人の子(=キリスト)は苦しみを重ね、辱(はずかし)めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか(=キリストがあらわれるより先に、信仰が回復されて準備がととのっているはずなのに、それならなぜ、実際のキリストが拷問をうけ、裸(はだか)にされ、十字架にかけられることになるのか、と弟子たちに問いかけています。これはいまのわたしたちには、新約聖書があるので、わたしたちの罪の身代わりとしてこられた “初臨” と、悪を一掃(いっそう)するためにこられる “再臨” との区別がつきますが、当時の弟子たちにとっては、いまいるキリストがメシアとしての道をひたすすみ、このまま世を治めてくれるはずだと思いこんでいる背景があります。ですから彼らからすれば、この先、キリストが苦しむことになるという預言(=イザヤ53章など)への理解が、なかなかともなってこない状態にあるのです。こうして自分たちの目の前にメシアであるキリストがいるというのに、なぜそのキリストが苦しむことになるのか、またそれ以前に、そもそもエリヤもまだあらわれてないではないか、という疑問がぬぐえずにいるわけです)。しかし、言っておく。エリヤは来たが(=信じる者にとっては、エリヤと同等のはたらきをするヨハネが来たが)、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである(=旧約時代のエリヤは、神に仕えていましたが、人々は預言者を殺すなどして、彼をあしらいました(列王記 上19-10)。そしてヨハネも神に仕えていましたが、ヘロデ王の宴会(えんかい)の席で殺されました。これらの二つの出来事をかさねた言いまわしをすることで、理解の追いついてこない弟子たちに、もうすでにエリヤは来て、しかもあしらわれた(=殺された)のだ、ということをつたえておられます。しかしもちろんこれは、実際にエリヤが来たということではありません。エリヤの霊と力をやどしているヨハネが来たということであり、そのヨハネのはたらきが、とりわけ信じる者にとっては、再臨の前におとずれるエリヤと同等のものであったということです。ここでのキリストは、こうした意味をこめて語られていたものと思います。なおここのところはマタイ11-14、17-11~13、ルカ1-15~17、マラキ3-23~24なども参照してください)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の14~29節より

 

『一同が(=キリストとペトロ、ヤコブヨハネが)ほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊(=悪霊)に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか(=だれひとりこの子のことや、悪霊を追いだすことについて、神へと目を向けて祈ることをせず、そればかりか議論までしていた状況をなげいておられます。そしてこうした信仰のなさが、キリストが到来してくださっているにもかかわらず、いたるところで見られた時代だということ)。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに(=あなたがたの信仰のなさに。あるいは信仰のうすさに)我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた(=悪霊は、このように一瞬でキリストが神であるのを見抜きます)。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました(=自殺させるような行動にかりたてていたということだと思います)。おできになるなら、わたしどもを憐(あわ)れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください(=父親は、自分に信仰がなかったのをみとめた上で、これからは信じますと助けを求めています)。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚(けが)れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ(=祈りをとおして、じかに神に依り頼(よりたの)まなければ)決して追い出すことはできないのだ」と言われた』

 

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・マルコによる福音書・9章の30~32節より

『一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである(=キリストは、ご自身がメシアであることも、いまは口止めされていました(マルコ8-29~30)。そしてこれに加え、ご自身が一度死に、そして三日目に復活するということも、口止めされていたものと思います。こうした神のご計画の核心にふれるものについては、まだ人々に広めるときではないと判断されていたということです。実際いまはローマの支配下にあり、またファリサイ派(=ユダヤ教の一派)からも命を狙われていました(マルコ3-6)。こうした状況において、ご自身が救世主であるとのうわさが飛び交うことは、さけるべきことだったのだと思います。キリストはなににもまして、神のご計画だけは確実にやりとげる必要があったのです)。弟子たちはこの言葉が分からなかったが(=キリストが一度死に、そこから三日目に復活するということの意味がわからなかったが)、怖くて尋ねられなかった(=彼らにとってキリストはユダヤの王であり、このキリストこそが、ローマ支配の現状を打ちこわし、神の国を治めるべきメシアであるのです。そのメシアが死ぬことなどあってはならず、彼らは真相を知るのが怖くなっていたのだと思います)』

 

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・マルコによる福音書・9章の33~37節より

 

『一行はカファルナウム(=ガリラヤ湖の北西の岸にある町)に来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉(えら)いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者(=神の国でより偉くなりたい者)は、すべての人の後になり(=この地上にいるあいだ、他人よりも自分を低くして)、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである(=キリストの名(=ご性質)を敬(うやま)っているがゆえに、このような子供をわけへだてなく受け入れられる者は、キリストをこころから受け入れているのだということ)。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである(=キリストを受け入れる者は、実のところ父である神を受け入れているのだということ)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の38~41節より

 

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って(=キリストの名を使って)悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので(=加わらない、もしくは言うことを聞かないので)、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい(=キリストの名にたよっておきながら、そのすぐあとでキリストを悪く言うことはできないだろうということ。そもそもこの人は、キリストの名を使って悪霊を追い出せているので、信仰があったものと思います)。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである(=キリストと人間のあいだにある関係性は、敵対しているか、味方であるかのこのどちらかです。そのちょうど中間の、どっちつかずということはありません。ここではキリストの名で悪霊を追いだしていたのですから、この彼は味方であるのです)。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける(=たとえまだ信仰に対して目がひらかれていないような人であっても、キリストの弟子だという理由で親切にしてくれる人たちには、神が良い報いをさずけられるということ)」』

 

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・マルコによる福音書・9章の42~48節より

 

『わたしを信じるこれらの小さな者(=子供や弱い者、また信仰が浅い人たち)の一人をつまずかせる者は(=罪を犯させたり、また信仰から離れさせたりする者は)、大きな石臼(いしうす=穀物をすりつぶす石の道具)を首に懸(か)けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい(=それだけのちに、重い裁きが用意されているということ。結局他人をつまずかせる者は、それをとおして自分が罪を犯しているのです)。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい(=この言葉そのものの意味は、もし片方の手があなたに罪を犯させたり、信仰をうばったり、メシアであるキリストを信じなくさせたりするのであれば、切り捨ててしまいなさい、ということだと思います。ですが、キリストご自身が語られているように、人をけがす根本の原因は、その人の内側の悪い心にあります(マルコ7-20~21)。ですから、ここでは、あくまで “つまずかせる” ということの罪の深刻さを、こうした表現でつたえられているのだと思います)。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない(=聖書には、このようにはっきりと地獄の存在が示されています)』

 

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・マルコによる福音書・9章の49~50節より

 

『人は皆、火で塩味を付けられる(=まずここでの “火” とは、キリストが説く言葉、つまりみことばのことです。同じ使われ方が、マタイ3-11にも見られます。そして次に、塩には、神へのささげ物をする際の、穀物などの腐敗をふせぎ、清めるといった意味があります(レビ記2-13、列王記 下2-21)。ですから “火で塩味を付けられる” とは、みことばによって、神にささげるにふさわしいものとされているということです)。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば(=塩としての効果がなくなれば)、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい(=みことばをうわべだけでなく自分のものとして、自分の内側につねに塩をたもち、神へのささげものとしてふさわしい状態にしておきなさい)。そして、互いに平和に過ごしなさい』

 

(次回は10章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。

マルコによる福音書の1章(解き明かし)

2020年6月23日

 

『 マルコによる福音書の1章(解き明かし) 』

 

(今回より “マルコによる福音書” の解き明かしをおこなっていきたいと思います。ここは現在では16章にわけられていますので、それにもとづいて16回にわけて記事にしていくことにします。なおマルコは、十二使徒ではありませんが、十二使徒のペトロの信仰上の息子にあたります(=ペトロ1:5-13を参照のこと)。また福音書とは、キリストの生涯やその教えを記した書のことです)

 

・マルコによる福音書・1章の1~8節より

 

『神の子イエス・キリストの福音の初め(=ふくいんとは、喜ばしい知らせのことです)。預言者イザヤ(=よげんしゃとは、神からの啓示をうけて、その教えや未来に関することなどをつたえる者のこと。イザヤはキリストより700年ほど前に活動した人物になります)の書に(=旧約聖書イザヤ書に)こう書いてある。

「見よ、わたしは(=神は)あなたより先に使者を遣わし(=キリストが地上にあらわれるより先に洗礼者ヨハネを遣わし)、あなたの道を準備させよう(=キリストが宣教しやすいように仕向けさせよう)。荒れ野で叫ぶ者(=こう叫ぶ者)の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ(=キリストの教えが広まりやすいように、そのさきがけとなって準備を整えよ)』」

そのとおり(=イザヤ書にある預言のとおり)、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼(=罪を清めるために身を水にひたす儀式のこと)を宣べ伝えた。ユダヤの全地方(=死海の西側一帯)とエルサレム(=かねてからのイスラエルの中心地)の住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣(けごろも)を着、腰に革の帯(おび)を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方(=キリスト)が、後から(=もう間もなくで)来られる。わたしは、かがんでその方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない(=神であるキリストをこうたたえています)。わたしは水で(=ヨルダン川の水で)あなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊(=神の霊)で洗礼をお授けになる(=キリストは信仰をいだいた者を、聖霊によって清められます。この洗礼をさずかった者はみな、神の子とみなされるのです)」

 

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・マルコによる福音書・1章の9~11節より

 

『そのころ(=ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたころ)、イエスガリラヤのナザレ(=イスラエル北部のガリラヤ地方にある村のことです。キリストの故郷でもあります)から来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた(=このように神であるキリストが、実際に洗礼を受けることの大切さを示されました)。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて(=父なる神がおられる天がさけて)“霊(=神の霊)”が鳩(はと)のように御自分に降(くだ)って来るのを、御覧になった(キリストご自身がご覧になった)。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が(=父なる神の声が)、天から聞こえた(=なお今回のところには、父なる神、子なるキリスト、神の霊である聖霊、という神の三位一体(さんみいったい)を成している、三つの位格が登場されています。これら三つの位格は切っても切れない関係にあり、神は唯一でありながらも、父、子、聖霊という三つの位格において存在されているのです)」

 

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・マルコによる福音書・1章の12~13節より

 

『それから、“霊(=聖霊)”はイエスを荒れ野に送り出した(=これは以下にでてきますが、聖霊が意図して、キリストに悪魔の誘惑を受けさせるために荒れ野へ導かれたということ)。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた(=この世を支配しているのは悪魔であり、かつサタンはキリストが神の子であるのを知っていたので、世の権力や富でほのめかして、キリストに誘惑をもちかけてきました。もちろんキリストはこれらの誘惑を拒み、神への信仰を示されました)。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた(=荒れ野ですから建物などはなく、一日中野生の動物たちと同じ条件下で過ごされていたということ。おそらくこのヨルダン川周辺には、ジャッカルなどの肉食獣も生息していたものと思います。そのため天使たちが、人間の体をもって地上に降り立ったキリストをお守りしていたということです)』

 

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・マルコによる福音書・1章の14~15節より

 

ヨハネが捕らえられたのち(=洗礼者ヨハネは、ヘロデ王(=当時のユダヤの王)に対して、ヘロデが自分の兄弟の妻と結婚したことは、神の律法に反していると述べました。これを不服としたヘロデはヨハネを捕らえ、牢に入れていたのです)、イエスガリラヤへ行き、神の福音を(=神からの喜ばしい知らせを)宣べ伝えて、「時は満ち、神の国(=永遠の御国(みくに))は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(=ここには “悔い改めて” という言葉がでてきています。わたしたちは神の恵みにより、信仰によって救われていますが、この信仰がたしかなものであるとき、その人は必ず悔い改めの心を持つようになっていくのです)』

 

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・マルコによる福音書・1章の16~20節より

 

『イエスは、ガリラヤ湖(=イスラエル北部にある湖)のほとりを歩いておられたとき、シモン(=十二使徒のペテロのこと)とシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた(=ここでの “人間をとる” とは、それまで神に信仰のなかった者を、信仰のある者へと導くことをあらわしています。要するに、人間をとる=人に神を信じるように仕向けさせる、といったところでしょうか。ですので、ここでの人間をとる “漁師” とは、人間を神へと向けさせる “伝道師” のことを指しています)。二人はすぐに網を捨てて従った(=この場でただちにキリストの弟子になった)。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが(=ヤコブヨハネ十二使徒です。その父がゼベダイだということ)、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇(やと)い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った(=この二人もこの場でただちに弟子になったということ)』

 

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・マルコによる福音書・1章の21~28節より

 

『一行はカファルナウム(=ガリラヤ湖の北西の岸にある町)に着いた。イエスは、安息日(=仕事を休み、神に礼拝を行う日のことで7日ごとにおとずれる)に会堂(=礼拝を行う場所)に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者(=神が定めた律法を説く者。ただしこの当時の律法学者は、モーセ(=かつてのイスラエルの民の指導者)のときの律法を歪曲(わいきょく=ねじ曲げること)してしまっていました)のようにではなく、権威ある者として(=権威に満ちたご自身の言葉で)お教えになったからである。そのとき、この会堂に汚(けが)れた霊(=悪霊のこと。これは堕落した天使のことです)に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ(=神の御子(みこ=神の子)だ。つまりこの悪霊は、キリストが神の御子であることを知っている)。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ(=悪霊でさえが聞き従うほどの権威を、キリストが示されたということ)。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々(すみずみ)にまで広まった』

 

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・マルコによる福音書・1章の29~34節より

 

『すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレ(=キリストの弟子)の家に行った。ヤコブヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめ(=シモンの妻の母)が熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした(=一瞬で病(やまい)が治ったということ)。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし(=治し)、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである(=悪霊は、キリストが神の御子であるのを知っていたということ)』

 

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・マルコによる福音書・1章の35~39節より

 

『朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は(=弟子たちは)イエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜(さが)しています(=これは、病を治せるキリストに会いたがっているということ)」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する(=神の福音を言い広める)。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された』

 

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・マルコによる福音書・1章の40~45節より

 

『さて、重い皮膚病(=当時の人々には治せない皮膚病)を患(わずら)っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心(みこころ)ならば(=神のご意志がここにあるならば)、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった(=人間には治せない病をキリストが治したということ。これはほかならぬ神が実在していることを、キリストが示したことになります)。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司(=神に礼拝や供え物をささげる人)に体を見せ、モーセが定めたものを(=神がモーセに与えた律法で定めているものを)清めのために献げて、人々に証明しなさい(=口で言いふらさずに、掟(おきて)どおりの献げ物をすることで、神に病を治してもらったことを人々に示しなさい。ここでのキリストは、難病を治した神がおられるということを、神の律法に則ったかたちで、人々に証(あか)しされることを望まれていました)。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず(=うわさを聞きつけた者たちの、人だかりのために町に入ることができず)、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た』

 

 

(次回は2章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。

聖書の預言である、エゼキエル戦争について

2020年3月4日

 

『 聖書の預言である、エゼキエル戦争について 』

 

(以下の、エゼキエル書・38章の1~23節(=いまから2500年以上前に書かれた)には、世のおわりに向かう過程で、マゴグ(=現ロシア)が連合軍を組み、イスラエルに侵攻することになる、といった預言がつづられています。なおこの書は、神がエゼキエルに啓示(けいじ)をあたえられたことで、書きのこされました)

 

『主(=神)の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ(=エゼキエルよ)、マゴグ(=現ロシア)の地のゴグ(=これはロシアの指導者を指す称号のことです)、すなわちメシェク(=ロシアのモスクワのこと)とトバル(=ロシアのトボリスクのこと)の総首長(=つまりゴグ)に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェク(=モスクワ)とトバル(=トボリスク)の総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう(=世のおわりの計画の成就のために、お前と向かいあう)。わたしはお前を立ち帰らせ(=連れ歩き)、お前の顎(あご)に鉤(かぎ=物を引っかけるためのもの)をかけて、お前とその全軍(=ゴグとロシアの軍隊)、馬と騎兵を連れ出す。彼らは皆完全に武装した大集団で、大盾(おおだて)と小盾(こだて)を持ち、皆剣を持っている。ペルシア(=現イラン)、クシュ(=現スーダン、もしくは現エチオピア)、プト(=現リビア、もしくは現ソマリア)が彼らと(=ロシアの軍隊と)共におり、皆、盾を持ち、兜をかぶっている。ゴメル(=これは現トルコからヨーロッパにかけてのどこか)とそのすべての軍隊、北の果てのベト・トガルマ(=現トルコ)とそのすべての軍隊、それに多くの国民がお前と共にいる(=ロシアを中心とする大きな連合軍であるということ)。備えをせよ。お前(=ゴグ)も、お前のもとに召集されるすべての集団も備えをせよ。お前は彼らの監督となれ(=ゴグはこれらの連合軍の指揮をとれ)。多くの日の後(のち)、お前(=ゴグ)は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う(=これはイスラエルを襲うということ。なおここには、“多くの年を経た後” とありますが、これは要するに、ゴグが呼び出され、戦争を仕掛けることになる時期までが、神によって定められているということ。ちなみにこの預言を神がエゼキエルにさずけたのは、今より2500年以上前ですから、すでに現時点においても “多くの年が経っている” といえるものと思います)。それは長く荒れ廃(すた)れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから(=第二次世界大戦から)解放され、多くの民の中から(=世界中から)集められた民(=イスラエル人)がいる(=イスラエル人は大戦後の1948年にイスラエルが建国されるまで、帰るべき国がなく、長い間世界中に散らばっていましたが、いまは自分たちの国をもち、人々が集まっています)。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。お前(=ゴグ)は嵐のように上って来て、地を覆う雲のように襲いかかる。お前とお前の全軍、お前と共にいる多くの民は。主なる神はこう言われる。その日、お前の心に言葉が浮かぶ。お前は悪い計画を立て、そして言う。『わたしは囲いのない国へ(=イスラエルへ)攻め上る。城壁もかんぬき(=門をしめるための横木)も門もなく安らかに生活している静かな国を襲う』と。お前はかつて廃虚であったが、今は人の住んでいる国(=イスラエルのこと)、諸国民のもとから(=世界中から)集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に(=イスラエル人に)対して手を上げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとしている(=この物資や財産の略奪が、連合軍が侵攻する理由です)。シェバとデダン(=おもに現サウジアラビア)、タルシシュ(=候補として現イギリスやスペイン)の商人たち、およびその富豪(ふごう)たちはすべてお前(=ゴグ)に言う。『お前は戦利品を奪うために来たのか。お前はほしいままに略奪するために集団を組んだのか。金銀を運び去り、家畜や財産を手に入れ、多くの戦利品を奪おうとするのか』と。それゆえ、人の子よ(=エゼキエルよ)、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか(=物資や財産を盗みとろうとするのか)。お前は北の果ての自分の所から(=イスラエルの北にあるロシアから)、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に(=世のおわりの日に)起こる。わたしはお前を、わたしの地に(=イスラエルに)連れて来る(=このようにゴグの侵略も、神の計画のうちであるということ)。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で(=世界中で)、お前を通して自分の聖なることを示し(=神であることを示し)、彼らがわたしを知るようになるためである(=これは以下にでてきますが、つまりイスラエルに侵攻したゴグの連合軍を、神ご自身が壊滅させることで、世界中の人々が、神の存在を知るようになるということ)。主なる神はこう言われる。お前は、遠い昔、わたしが僕(しもべ)であるイスラエル預言者たちを通して語ったその者ではないか(=これはかつての預言者たちに、ゴグに関する預言をさせていたということ)。この預言者たちは、長年にわたって、彼ら(=イスラエル人)に向かってわたしがお前(=ゴグ)を来させる、と語った(=ゴグの襲来をつたえていた)。ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤り(いきどおり=怒り)は激しく燃え上がる。わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる。海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這(は)うすべてのもの、および地上のすべての人間は、わたしの前に震える(=神の御業(みわざ)の前に震えることになる)。山々は裂け、崖は崩れ、すべての城壁は地に倒れる。わたしはすべての山の上で(=侵攻されていたイスラエルのすべての山の上で)、ゴグに向かって剣を呼び寄せる、と主なる神は言われる。人はおのおの、剣をその兄弟に向ける(=連合軍に反乱がおこり、同士討ちする)。わたしは疫病(えきびょう=感染症)と流血によって彼(=ゴグ)を裁く。わたしは彼とその軍勢、また、彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹(ひょう)と火と硫黄(いおう)を注ぐ(=これは言葉どおり、こうしたものを神が注ぐということ)。わたしは自らの偉大さと聖(=せいとは、神の絶対的な尊厳をあらわした表現のこと)とを多くの国々の前に(=世界中に)示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる(=こうして世界中の人たちが、神の存在を認め、キリストが神であるということを知るようになります)』

 

(上記には、世のおわりに起こるとされる侵略についての預言がつづられています。これは簡単にまとめますと、イスラエルはこの先、北から押し寄せる連合軍によって、戦争を仕掛けられるということです。そしてそれらの連合軍を神が滅ぼす(=その一つに、神がイスラエルにおこす大地震があります)ことで、それを目の当たりにした世界中の人たちが、神(=キリスト)が実在していることを知るようになるのです。なお上記の侵略は、このさらにあとに起こる、反キリストによるハルマゲドンとはべつのものになります)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。