聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の1章(解き明かし)

2020年6月23日

 

『 マルコによる福音書の1章(解き明かし) 』

 

(今回より “マルコによる福音書” の解き明かしをおこなっていきたいと思います。ここは現在では16章にわけられていますので、それにもとづいて16回にわけて記事にしていくことにします。なおマルコは、十二使徒ではありませんが、十二使徒のペトロの信仰上の息子にあたります(=ペトロ1:5-13を参照のこと)。また福音書とは、キリストの生涯やその教えを記した書のことです)

 

・マルコによる福音書・1章の1~8節より

 

『神の子イエス・キリストの福音の初め(=ふくいんとは、喜ばしい知らせのことです)。預言者イザヤ(=よげんしゃとは、神からの啓示をうけて、その教えや未来に関することなどをつたえる者のこと。イザヤはキリストより700年ほど前に活動した人物になります)の書に(=旧約聖書イザヤ書に)こう書いてある。

「見よ、わたしは(=神は)あなたより先に使者を遣わし(=キリストが地上にあらわれるより先に洗礼者ヨハネを遣わし)、あなたの道を準備させよう(=キリストが宣教しやすいように仕向けさせよう)。荒れ野で叫ぶ者(=こう叫ぶ者)の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ(=キリストの教えが広まりやすいように、そのさきがけとなって準備を整えよ)』」

そのとおり(=イザヤ書にある預言のとおり)、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼(=罪を清めるために身を水にひたす儀式のこと)を宣べ伝えた。ユダヤの全地方(=死海の西側一帯)とエルサレム(=かねてからのイスラエルの中心地)の住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣(けごろも)を着、腰に革の帯(おび)を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方(=キリスト)が、後から(=もう間もなくで)来られる。わたしは、かがんでその方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない(=神であるキリストをこうたたえています)。わたしは水で(=ヨルダン川の水で)あなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊(=神の霊)で洗礼をお授けになる(=キリストは信仰をいだいた者を、聖霊によって清められます。この洗礼をさずかった者はみな、神の子とみなされるのです)」

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の9~11節より

 

『そのころ(=ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたころ)、イエスガリラヤのナザレ(=イスラエル北部のガリラヤ地方にある村のことです。キリストの故郷でもあります)から来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた(=このように神であるキリストが、実際に洗礼を受けることの大切さを示されました)。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて(=父なる神がおられる天がさけて)“霊(=神の霊)”が鳩(はと)のように御自分に降(くだ)って来るのを、御覧になった(キリストご自身がご覧になった)。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が(=父なる神の声が)、天から聞こえた(=なお今回のところには、父なる神、子なるキリスト、神の霊である聖霊、という神の三位一体(さんみいったい)を成している、三つの位格が登場されています。これら三つの位格は切っても切れない関係にあり、神は唯一でありながらも、父、子、聖霊という三つの位格において存在されているのです)」

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の12~13節より

 

『それから、“霊(=聖霊)”はイエスを荒れ野に送り出した(=これは以下にでてきますが、聖霊が意図して、キリストに悪魔の誘惑を受けさせるために荒れ野へ導かれたということ)。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた(=この世を支配しているのは悪魔であり、かつサタンはキリストが神の子であるのを知っていたので、世の権力や富でほのめかして、キリストに誘惑をもちかけてきました。もちろんキリストはこれらの誘惑を拒み、神への信仰を示されました)。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた(=荒れ野ですから建物などはなく、一日中野生の動物たちと同じ条件下で過ごされていたということ。おそらくこのヨルダン川周辺には、ジャッカルなどの肉食獣も生息していたものと思います。そのため天使たちが、人間の体をもって地上に降り立ったキリストをお守りしていたということです)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の14~15節より

 

ヨハネが捕らえられたのち(=洗礼者ヨハネは、ヘロデ王(=当時のユダヤの王)に対して、ヘロデが自分の兄弟の妻と結婚したことは、神の律法に反していると述べました。これを不服としたヘロデはヨハネを捕らえ、牢に入れていたのです)、イエスガリラヤへ行き、神の福音を(=神からの喜ばしい知らせを)宣べ伝えて、「時は満ち、神の国(=永遠の御国(みくに))は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(=ここには “悔い改めて” という言葉がでてきています。わたしたちは神の恵みにより、信仰によって救われていますが、この信仰がたしかなものであるとき、その人は必ず悔い改めの心を持つようになっていくのです)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の16~20節より

 

『イエスは、ガリラヤ湖(=イスラエル北部にある湖)のほとりを歩いておられたとき、シモン(=十二使徒のペテロのこと)とシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた(=ここでの “人間をとる” とは、それまで神に信仰のなかった者を、信仰のある者へと導くことをあらわしています。要するに、人間をとる=人に神を信じるように仕向けさせる、といったところでしょうか。ですので、ここでの人間をとる “漁師” とは、人間を神へと向けさせる “伝道師” のことを指しています)。二人はすぐに網を捨てて従った(=この場でただちにキリストの弟子になった)。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが(=ヤコブヨハネ十二使徒です。その父がゼベダイだということ)、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇(やと)い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った(=この二人もこの場でただちに弟子になったということ)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の21~28節より

 

『一行はカファルナウム(=ガリラヤ湖の北西の岸にある町)に着いた。イエスは、安息日(=仕事を休み、神に礼拝を行う日のことで7日ごとにおとずれる)に会堂(=礼拝を行う場所)に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者(=神が定めた律法を説く者。ただしこの当時の律法学者は、モーセ(=かつてのイスラエルの民の指導者)のときの律法を歪曲(わいきょく=ねじ曲げること)してしまっていました)のようにではなく、権威ある者として(=権威に満ちたご自身の言葉で)お教えになったからである。そのとき、この会堂に汚(けが)れた霊(=悪霊のこと。これは堕落した天使のことです)に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ(=神の御子(みこ=神の子)だ。つまりこの悪霊は、キリストが神の御子であることを知っている)。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ(=悪霊でさえが聞き従うほどの権威を、キリストが示されたということ)。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々(すみずみ)にまで広まった』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の29~34節より

 

『すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレ(=キリストの弟子)の家に行った。ヤコブヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめ(=シモンの妻の母)が熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした(=一瞬で病(やまい)が治ったということ)。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし(=治し)、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである(=悪霊は、キリストが神の御子であるのを知っていたということ)』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の35~39節より

 

『朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は(=弟子たちは)イエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜(さが)しています(=これは、病を治せるキリストに会いたがっているということ)」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する(=神の福音を言い広める)。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された』

 

――――――――――――――――――――

・マルコによる福音書・1章の40~45節より

 

『さて、重い皮膚病(=当時の人々には治せない皮膚病)を患(わずら)っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心(みこころ)ならば(=神のご意志がここにあるならば)、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった(=人間には治せない病をキリストが治したということ。これはほかならぬ神が実在していることを、キリストが示したことになります)。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司(=神に礼拝や供え物をささげる人)に体を見せ、モーセが定めたものを(=神がモーセに与えた律法で定めているものを)清めのために献げて、人々に証明しなさい(=口で言いふらさずに、掟(おきて)どおりの献げ物をすることで、神に病を治してもらったことを人々に示しなさい。ここでのキリストは、難病を治した神がおられるということを、神の律法に則ったかたちで、人々に証(あか)しされることを望まれていました)。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず(=うわさを聞きつけた者たちの、人だかりのために町に入ることができず)、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た』

 

 

(次回は2章を見ていきたいと思います)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。

聖書の預言である、エゼキエル戦争について

2020年3月4日

 

『 聖書の預言である、エゼキエル戦争について 』

 

(以下の、エゼキエル書・38章の1~23節(=いまから2500年以上前に書かれた)には、世のおわりに向かう過程で、マゴグ(=現ロシア)が連合軍を組み、イスラエルに侵攻することになる、といった預言がつづられています。なおこの書は、神がエゼキエルに啓示(けいじ)をあたえられたことで、書きのこされました)

 

『主(=神)の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ(=エゼキエルよ)、マゴグ(=現ロシア)の地のゴグ(=これはロシアの指導者を指す称号のことです)、すなわちメシェク(=ロシアのモスクワのこと)とトバル(=ロシアのトボリスクのこと)の総首長(=つまりゴグ)に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェク(=モスクワ)とトバル(=トボリスク)の総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう(=世のおわりの計画の成就のために、お前と向かいあう)。わたしはお前を立ち帰らせ(=連れ歩き)、お前の顎(あご)に鉤(かぎ=物を引っかけるためのもの)をかけて、お前とその全軍(=ゴグとロシアの軍隊)、馬と騎兵を連れ出す。彼らは皆完全に武装した大集団で、大盾(おおだて)と小盾(こだて)を持ち、皆剣を持っている。ペルシア(=現イラン)、クシュ(=現スーダン、もしくは現エチオピア)、プト(=現リビア、もしくは現ソマリア)が彼らと(=ロシアの軍隊と)共におり、皆、盾を持ち、兜をかぶっている。ゴメル(=これは現トルコからヨーロッパにかけてのどこか)とそのすべての軍隊、北の果てのベト・トガルマ(=現トルコ)とそのすべての軍隊、それに多くの国民がお前と共にいる(=ロシアを中心とする大きな連合軍であるということ)。備えをせよ。お前(=ゴグ)も、お前のもとに召集されるすべての集団も備えをせよ。お前は彼らの監督となれ(=ゴグはこれらの連合軍の指揮をとれ)。多くの日の後(のち)、お前(=ゴグ)は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う(=これはイスラエルを襲うということ。なおここには、“多くの年を経た後” とありますが、これは要するに、ゴグが呼び出され、戦争を仕掛けることになる時期までが、神によって定められているということ。ちなみにこの預言を神がエゼキエルにさずけたのは、今より2500年以上前ですから、すでに現時点においても “多くの年が経っている” といえるものと思います)。それは長く荒れ廃(すた)れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから(=第二次世界大戦から)解放され、多くの民の中から(=世界中から)集められた民(=イスラエル人)がいる(=イスラエル人は大戦後の1948年にイスラエルが建国されるまで、帰るべき国がなく、長い間世界中に散らばっていましたが、いまは自分たちの国をもち、人々が集まっています)。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。お前(=ゴグ)は嵐のように上って来て、地を覆う雲のように襲いかかる。お前とお前の全軍、お前と共にいる多くの民は。主なる神はこう言われる。その日、お前の心に言葉が浮かぶ。お前は悪い計画を立て、そして言う。『わたしは囲いのない国へ(=イスラエルへ)攻め上る。城壁もかんぬき(=門をしめるための横木)も門もなく安らかに生活している静かな国を襲う』と。お前はかつて廃虚であったが、今は人の住んでいる国(=イスラエルのこと)、諸国民のもとから(=世界中から)集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に(=イスラエル人に)対して手を上げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとしている(=この物資や財産の略奪が、連合軍が侵攻する理由です)。シェバとデダン(=おもに現サウジアラビア)、タルシシュ(=候補として現イギリスやスペイン)の商人たち、およびその富豪(ふごう)たちはすべてお前(=ゴグ)に言う。『お前は戦利品を奪うために来たのか。お前はほしいままに略奪するために集団を組んだのか。金銀を運び去り、家畜や財産を手に入れ、多くの戦利品を奪おうとするのか』と。それゆえ、人の子よ(=エゼキエルよ)、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか(=物資や財産を盗みとろうとするのか)。お前は北の果ての自分の所から(=イスラエルの北にあるロシアから)、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に(=世のおわりの日に)起こる。わたしはお前を、わたしの地に(=イスラエルに)連れて来る(=このようにゴグの侵略も、神の計画のうちであるということ)。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で(=世界中で)、お前を通して自分の聖なることを示し(=神であることを示し)、彼らがわたしを知るようになるためである(=これは以下にでてきますが、つまりイスラエルに侵攻したゴグの連合軍を、神ご自身が壊滅させることで、世界中の人々が、神の存在を知るようになるということ)。主なる神はこう言われる。お前は、遠い昔、わたしが僕(しもべ)であるイスラエル預言者たちを通して語ったその者ではないか(=これはかつての預言者たちに、ゴグに関する預言をさせていたということ)。この預言者たちは、長年にわたって、彼ら(=イスラエル人)に向かってわたしがお前(=ゴグ)を来させる、と語った(=ゴグの襲来をつたえていた)。ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤り(いきどおり=怒り)は激しく燃え上がる。わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる。海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這(は)うすべてのもの、および地上のすべての人間は、わたしの前に震える(=神の御業(みわざ)の前に震えることになる)。山々は裂け、崖は崩れ、すべての城壁は地に倒れる。わたしはすべての山の上で(=侵攻されていたイスラエルのすべての山の上で)、ゴグに向かって剣を呼び寄せる、と主なる神は言われる。人はおのおの、剣をその兄弟に向ける(=連合軍に反乱がおこり、同士討ちする)。わたしは疫病(えきびょう=感染症)と流血によって彼(=ゴグ)を裁く。わたしは彼とその軍勢、また、彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹(ひょう)と火と硫黄(いおう)を注ぐ(=これは言葉どおり、こうしたものを神が注ぐということ)。わたしは自らの偉大さと聖(=せいとは、神の絶対的な尊厳をあらわした表現のこと)とを多くの国々の前に(=世界中に)示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる(=こうして世界中の人たちが、神の存在を認め、キリストが神であるということを知るようになります)』

 

(上記には、世のおわりに起こるとされる侵略についての預言がつづられています。これは簡単にまとめますと、イスラエルはこの先、北から押し寄せる連合軍によって、戦争を仕掛けられるということです。そしてそれらの連合軍を神が滅ぼす(=その一つに、神がイスラエルにおこす大地震があります)ことで、それを目の当たりにした世界中の人たちが、神(=キリスト)が実在していることを知るようになるのです。なお上記の侵略は、このさらにあとに起こる、反キリストによるハルマゲドンとはべつのものになります)

 

なお聖書本文は、日本聖書協会の新共同訳から引用しております。