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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マタイによる福音書のむずかしい例え:その七

2021年5月25日

 

『 マタイによる福音書のむずかしい例え:その七 』

 

(今回も、マタイによる福音書にある、キリストが語られたむずかしい例えについて、ふれてみたいと思います)

 

・マタイによる福音書・22章の41~46節より

ファリサイ派の人々(=旧約聖書を信じているのに、実際に目の前にあらわれたイエスを、メシア(=世の救い主)とも、神ともみとめられずにいる者たち)が集まっていたとき、イエスは(=メシアでもあり、神でもあるイエスは)お尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です(=旧約聖書には、メシアがダビデの子孫から誕生すると預言されています。実際イエスは、ダビデの子孫としてこの地上に生まれたので、これはまちがいではありません)」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを(=救い主を)主(=わたしの神)と呼んでいるのだろうか(=では、どうしてダビデは、メシアを “わたしの子” と呼ばずに、“わたしの神” と呼んでいるのか。メシアが自分の子孫なら “わたしの子” と呼ぶはずではないか。こうのべた上でイエスは、ダビデ自身のことばを引用しています)。『主(=父なる神)は、わたしの主に(=メシアであるわたしの神に)お告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵(=サタン)を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と(=これは神が、世を救う再臨のときまでわたしのとなりにいなさい、とメシアの権威を有している者に語りかけているおことばです。このメシアにだけふさわしいことばをうけた者を、ダビデはわたしの主(=神)と呼んで、同一のものとみなしているのです)。』このようにダビデがメシアを主(=神)と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか(=このようにダビデが、メシアは神でもあると語っているのに、なぜあなたたちは、メシアはダビデの子、すなわち人間であるということばに、とらわれつづけているのか。メシアは “ダビデの子” というくくりで語られるものではなく、同時に神でもあるのだ。事実ダビデはメシアとしての子孫をさずかる前から、こうしてメシアが実在して、すでに生きておられるのを知っているではないか)。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず(=反論ができず)、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった(=ここに見られるように、ファリサイ派の人々は、メシアはダビデの子であり、人間であるという固定概念にとらわれていました。そのため彼らの目の前で、神としての奇跡をおこなっても、イエスをメシアとみとめないばかりか、それらを悪魔の力によるものだとみなしていたのです。ここでのイエスは、こうした固定概念をただそうと、彼らの過(あやま)った聖書理解を指摘しておられます。メシアであるイエスは、神でもあり人間でもある存在として、この地上にお生まれになったのです)』

 

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(上記の箇所も、わたしがむずかしく感じているところです。そこで今回、文字におこして向かいあってみました。もちろんこれが絶対だというものではありませんので、うのみにせずに、お一人お一人がキリストとのまじわりをふかめていただければと思います。それでは一人でも多くの方が、キリストのもとに立ちかえることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)