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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マタイによる福音書のむずかしい例え:その一

2021年5月11日

 

『 マタイによる福音書のむずかしい例え:その一 』

 

(今回は、マタイによる福音書にある、キリストが語られたむずかしい例えについて、ふれてみたいと思います)

 

・マタイによる福音書・5章の33~37節より(=以下はキリストのおことばです)

『また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、「偽(いつわ)りの誓い(=守らないちかい)を立てるな。主に(=神に)対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じられている(=これはレビ記19:12と申命記23:22をあわせたような言いまわしです)。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない(=本来、“神の御名(みな)” によって誓ったことには、厳粛(げんしゅく)さがついてまわり、軽々とやぶれるようなものではありませんでした。しかしこの当時の人々は、神の御名によって、という表現を意図的にさけて、天にかけてや、地にかけて、またエルサレムにかけて、といった表現をもちいては、守る気のない誓いを乱用していたのです。こうした背景をうけて、ここでのキリストは、一切誓いを立ててはならない、とのべておられます)。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座(ぎょくざ=神が座られるところ)である(=このように彼らは、神の御名によって、ということばをつかわずに、天にかけて誓う、という表現をとることで、神の権威をにおわせつつ、自分の発言に真実味をもたせようとしていました。くわえて彼らは、神の御名によっては誓っていないので、仮に誓いを守らなかったとしても、自分が罪にさだめられることはないという逃げ道をのこしていたのです)。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台(あしだい=脚をのせるところ。すなわち神が支配しておられるところ)である(=ここでも彼らは、神の御名という表現をさけながら、それとなく偉大なものをとおして誓うことで、自分の発言にただしさをもたせようとしています)。エルサレム(=イスラエルにある都市。ここに当時、神の神殿が建てられていました)にかけて誓ってはならない。そこは大王の都(=神が支配している都)である(=これも自分の発言をうたがわせないための、神の権威をにおわせた表現となっています)。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである(=たとえ神の権威を引きあいにださずに、あたかも自分の所有物と思っているものをとおして誓ってみせたところで、それとても自分が支配しているのではなく、神が支配しておられるのです。それゆえにこうした誓い自体に、なんの保証ももたせることができておらず、ことばだけが一人歩きしている状態にあるのです)。あなたがたは、「然(しか)り、然り」「否(いな)、否)」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである(=ですからあなたがたは、神の権威を乱用して誓いをたてたりせずに、ただ信仰にもとづいて「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい。要するに信仰に「かなっている」ことは「かなっている」とし、信仰に「かなっていない」ことは「かなっていない」として、自分を変(へん)にことば数でかざろうとせずに、ただ信仰の中にとどまりなさい、ということです。それ以上のことは “悪い者からでる” とあるように、キリストは上記のようなふるまいを、罪であるとのべておられるのです)』

 

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(上記の箇所は、わたしがいつも立ちどまってしまうところです。そこで今回、文字におこして向かいあってみました。もちろんこれが絶対だというものではありませんので、うのみにせずに、お一人お一人がキリストとのまじわりをふかめていただければと思います。それでは一人でも多くの方が、キリストのもとに立ちかえることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)