聖書からの素敵な言葉を

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マルコによる福音書の14章・全文(解き明かし)

2020年7月30日

 

『 マルコによる福音書の14章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは14章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・14章の1~2節より

『さて、過越祭(すぎこしさい=これは、かつてエジプトの奴隷だったイスラエルの民を救うために、神がエジプトにもたらした災(わざわ)いにちなんだものです。神はこのときにエジプト中の初子(ういご=夫婦のあいだではじめて生まれた子)を撃たれたのですが、神の指示にしたがっていたイスラエルの民には、この裁きをもたらすことがありませんでした。このことを祝しているのが、この過越祭ということです。出エジプト12-13~14)と除酵祭(じょこうさい=過越祭にあわせておこなわれる7日間の祭りのことです。これはエジプトからにげる際に、パンに酵母(こうぼ)を入れて焼いている時間がなかったことにちなんでいますが、もちろん祭りとしての意味は、脱出を祝してのものになっています。出エジプト12-17)の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた(=これは祭りのために民衆が大勢エルサレムに集まっていたので、この期間にキリストを殺してしまうと、暴動などに発展してしまう恐れがあったためです。ですが、実際のところはこの過越祭の前日に、キリストは十字架にかけられて殺されてしまうことになります)』

 

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・マルコによる福音書・14章の3~9節より

『イエスがベタニア(=エルサレムの近くにある村)で重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルド(=おみなえし科の植物)の香油の入った石膏(せっこう)の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた(=これはおもてなしの行為です)。そこにいた人の何人かが、憤慨(ふんがい)して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン(=300日分の賃金)以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬(まいそう)の準備をしてくれた(=この人には、キリストへの熱い信仰があり、弟子たちがよく理解できずにいるキリストの死についても、この早い段階からうけとめていたのだと思います)。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう(=実際にこうして聖書にのせられることで、世界中の人たちが知るところとなっています)」』

 

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・マルコによる福音書・14章の10~11節より

『十二人の一人(=十二人の弟子のうちの一人)イスカリオテのユダ(=村の名に由来した呼び方)は、イエスを引き渡そうとして(=イエスを裏切ろうとして)、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた』

 

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・マルコによる福音書・14章の12~21節より

『除酵祭(じょこうさい)の第一日、すなわち過越(すぎこし)の小羊を屠(ほふ)る日(=ユダヤ人は過越祭の前日に、神にささげるための小羊をほふって、それを翌日に食べます。つまりユダヤの暦(こよみ)でいうニサンの月の14日に、小羊をほふって、それを15日の過越祭のときに食べるのです。ここでは、“小羊を屠る日” との表現がつかわれていますので、いま彼らは、14日をむかえているということです。なおユダヤ暦では、日没が日付の変わり目となりますので、14日のおわりかけの夕方にほふったものを、その夜に食べることが、15日に食べていることになります。またここで重要なのですが、この神にささげる小羊の役割を、キリストご自身が、まさしくこの14日のうちに十字架の上で命をささげることで、全世界の人々のために担(にな)ってくださるのです。これがかねてからの神のご計画であるのです。ヨハネ1-29)、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに(=ここは少し不思議な表現に思えます。キリストは14日に十字架にかけられ、その日にはすでに墓にほうむられています。ですから、実際に15日におこなわれるはずの過越の食事には、キリストは加わることができないのです。それにもかかわらず弟子たちは、過越の食事に1日早いタイミングで、こう表現しているのです。わたし自身は、ここにはなにか霊的な意味がこめられているものと思っています。なおヨハネによる福音書では、この食事のことを、過越祭の前日のものとして正確につづっています)、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ(=エルサレムへ)行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が(=キリストが)、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると(=これは日付が14日にきりかわって、まだそう時間が経っていないころのことだと思います)、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢(はち)に食べ物を浸(ひた)している者がそれだ(=これがユダのことです)。人の子は(=キリストは)、聖書に書いてあるとおりに、去って行く(=これはイザヤ書53章などで、キリストの死が預言されていることを指しています)。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった(=これはユダが神の国に入れないことを意味しています)」』

 

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・マルコによる福音書・14章の22~26節より

『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である(=キリストは、この夜が明けたのちに十字架にかけられることになるご自身の体を、こうして裂いたパンに重ねておられます。これは言いかえるなら、十字架で命を落とすキリストは、ほふられた小羊のことでもあるのに加え、同時に裂かれたパンとしてもあらわされているのですから、ここからみちびきだせるのは、この裂いたパンが、ほふられた小羊としての意味合いもおびてくるということです。おそらくキリストにはこうしたお考えがあったので、1日早いにもかかわらず、今日を “過越の食事” といわれたのだと思います。彼らが食べたのはパンではありますが、それは実のところ、ほふった小羊の肉でもあったわけです)。」また、杯(さかずき)を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である(=十字架にかけられることで流される血を、さかずきにつがれたぶどう酒に重ねておられます。なおここでの “多くの人のために流される契約の血” とは、もちろんキリストが十字架の上で流される血のことです。このキリストの血こそが、わたしたち人間の罪の代価として流されるものであり、このことを信じている者たちの罪はすべてがゆるされ、永遠の命までがあたえられているのです。この、神とわたしたちとが結ぶ契約を成り立たせてくださったのが、十字架の血であるのです)。はっきり言っておく。神の国で(=キリストが治める千年王国で)新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい(=これは言いかえるなら、キリストの再臨後に、もう一度皆でぶどう酒を飲むことになるということです。こうした希望がある一方で、それを迎えるまでは、キリストはぶどう酒を口にされることはなく、神としてのお働きをまっとうされるということなのだと思います)。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山(=エルサレムの東にある山)へ出かけた』

 

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・マルコによる福音書・14章の27~31節より

『イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく(=これは、もうまもなくでキリストが祭司長たちに取り押さえられることになりますが、その際に、弟子たちがキリストを見捨ててにげてしまうことを指しています)。『わたしは(=神は)羊飼い(ひつじかい=キリスト)を打つ。すると、羊(=弟子たち)は散ってしまう』と書いてあるからだ(=これはゼカリヤ13-7で預言されている言葉です。まもなく成就することになります)。しかし、わたしは復活した後(=死から甦ったのち)、あなたがたより先にガリラヤへ行く(=ガリラヤは弟子たちの故郷ですので、キリストは彼らに見捨てられはしますが、彼らをまたその地で迎え入れるおつもりであるということです)。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません(=わたしはキリストへの信仰を失わず、つねに従いますということ)」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏(にわとり)が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も(=他の弟子たちも)同じように言った』

 

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・マルコによる福音書・14章の32~42節より

『一同がゲツセマネという所(=オリーブ山のふもとにある)に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め(=これは十字架にかけられることで、父である神から呪われたものとして見なされ、ひいては神とのつながりが断たれることを恐れているのだと思います。申命記21-23)、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい(=ここは原文の直訳では、わたしの魂は死ぬばかりに悲しい、となっているようです。つまりキリストは肉体の死ではなく、魂の死を悲しんでいることになります。なお “魂の死” とは、神との霊におけるつながりが断たれることを意味しています。わたしたちもそうですが、わたしたちは肉体ではなく霊によって神と結ばれています。ですから霊のつながりが断たれるというとき、それは神との決別を意味し、魂が死んだも同然であることをあらわしているのです)。ここを離れず、目を覚ましていなさい(=これは単に起きていなさいということよりも、ここを離れず、信仰を胸にあてていなさいということ。いまのキリストは恐れや悲しみの最中にありますが、ご自身とともに神に祈ることを彼らに求められています)。」少し進んで行って地面にひれ伏し(=神に対してひれ伏し)、できることなら、この苦しみの時が(=神に呪われたものとして見なされ、神とのつながりが断たれるこの苦しみの時が)自分から過ぎ去るように(=自分の身に起こらぬように)と祈り、こう言われた。「アッバ、父よ(=アッバとは親しみをこめた呼び方です。ここでは、お父さん、といったニュアンスです)、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください(=ここでの “さかずき” とは、罪に対して神が向けられる “怒り” のことです。ヨハネの黙示録14-9~10)。つまりキリストは、わたしたちが犯した罪の身代わりとして、ご自身が罪そのものとなって、神の怒りからくる裁きを引きうけてくださるわけですが、その一方で、父である神からの、ご自身に向けられる “怒り” に対しては、もしできるのであれば、とりのぞいてほしいと願っておられるということです。それほどにキリストは、永遠の昔からともにいた神と、引き離されるのを悲しまれているのだと思います)。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(=神のみこころにあることが、そのままおこなわれますように)。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン(=ペトロの本名です)、眠っているのか。わずか一時(いっとき)も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥(おちい)らぬよう、目を覚まして祈っていなさい(=信仰の足を引っぱる誘惑に負けないように、目を覚まして祈っていなさい)。心は燃えても、肉体は弱い(=心では信仰に生きることを決心していても、誘惑に対して肉体は弱い)。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた(=できることならご自身の望みが叶えられるように、しかしそれはみこころのままに、とくり返し祈られたということ)。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった(=彼らはこの時点でも、夜が明ければキリストが十字架にかけられることになるのを理解できずにいるため、ここでのキリストに対して、どう声をかければよいのかわからなかった、ということだと思います)。イエスは三度目に戻って来て言われた(=キリストは三度目も同じように神に祈られたということ)。「あなたがたはまだ眠っている(=信仰に対して、しっかりと目がひらかれていないことをつげられています)。休んでいる。もうこれでいい。時が来た(=十字架にかけられるときがきた)。人の子は(=キリストは)罪人たちの手に引き渡される』

 

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・マルコによる福音書・14章の43~50節より

『さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たち(=本来なら率先して神に仕えるべきユダヤ人の指導者たち)の遣わした群衆も、剣(つるぎ)や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻(せっぷん)するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者(=これはキリストを守ろうとしている弟子のペトロのこと)が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに(=キリストを捕らえにきた者たちに)言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに(=神殿で毎日居合わせていたのに)、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである(=これはイザヤ53章などの、十字架にかけられる預言が成就するためであるということ)。」弟子たちは皆(=最初こそキリストを守ろうとしていたペトロも含めて)、イエスを見捨てて逃げてしまった』

 

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・マルコによる福音書・14章の51~52節より

『一人の若者が、素肌に亜麻布(あまぬの)をまとってイエスについて来ていた(=キリストが捕らえられた現場にいたということ)。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった(=これはこの福音書の著者であるマルコといわれています。彼はこのときまだ幼かったのですが、こうしてキリストに従う人々の中に加わっていたのです)』

 

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・マルコによる福音書・14章の53~65節より

『人々は(=キリストを捕らえた人々は)、イエスを大祭司(=祭司の最高の職位。祭司とは神のために祭儀などをつかさどる人のことです)のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役(したやく)たちと一緒に座って、火にあたっていた(=ペトロはキリストの他人をよそおって、こうして中に加わっていました)。祭司長たちと最高法院(=裁判所のようなもの)の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証(ぎしょう=嘘の証言)をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました(=これはヨハネ2-19~21にある言葉ですが、実際のキリストは、“この神殿を(=わたしのこの体を)壊してみよ(=十字架にかけてみよ)。三日で建て直してみせる(=三日で死から甦ってみせる)” という意味で語られていました。しかし彼らはこの “たとえ” を理解できずに、神殿を文字どおり建物としての神殿と解釈していたので、キリストがエルサレム神殿を打ち倒すと言ったことにして、キリストを死刑にしようとしていました。当時におけるこうした発言は、死刑の対象になっていたものと思います)。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子(=祈りたたえるべき神の子)、メシア(=救い主)なのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が(=キリストが)全能の神の右に座り(=これは天にある御座(みざ)のことです。十字架から復活されたキリストは、現在この御座についておられます)、天の雲に囲まれて来るのを(=キリストが再臨するのを)見る(=ここでのキリストは、これまでの問いには沈黙をつらぬいていましたが、この質問には返事をされています。こう返したことで、ユダヤ人指導者は、ますますキリストを死刑にしたくなったものと思います。この返事が元となり、彼らは、死刑を言いわたす権限のあるピラト(=ローマ総督)のところに、キリストをつれていくことになります。なお当時のローマの支配下においては、ユダヤ人には死刑を言いわたす権限がありませんでした)。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った(=怒りながら言った)。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜(ぼうとく)の言葉を聞いた(=ここでの “冒涜” とは、神の子でもない者が、自分を神の子であるかのように話したことを指しています。ですが、キリストは本当に神の子なのですから、キリストの言葉を信じていない彼らのほうが、神を冒涜していることになっているのです)。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾(つば)を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ(=だれが殴ったか言い当ててみろということ)」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った』

 

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・マルコによる福音書・14章の66~72節より

『ペトロが下の中庭(=大祭司の屋敷の中庭)にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレ(=キリストの故郷)のイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った(=ここでキリストの弟子であるのを認めると、ペトロも捕らえられる可能性があったため、しらをきってしまっています)。そして、出口の方へ出て行くと、鶏(にわとり)が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤ(=弟子たちの故郷)の者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら(=これはおそらく、自分がキリストの仲間だと思われないために、キリストを悪く言う言葉を口にしたのだと思います)、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた(=彼はキリストを知らないということを誓ってでも、この場から逃れようとしています)。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して(=キリストが述べていた預言が、実際に自分の身をとおして成就したことに気がついて)、いきなり泣きだした(=これはいままさにしらをきってしまった罪に加え、自分の不信仰さや、自分がいかに罪人であるのかを思い知り、これらに対する悔い改めが、この場でペトロの涙をさそったのだと思います)』

 

(次回は15章を見ていきたいと思います)