聖書からの素敵な言葉を

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マルコによる福音書の10章・全文(解き明かし)

2020年7月18日

 

『 マルコによる福音書の10章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは10章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・10章の1~12節より

『イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側(=ヨルダン川の東側)に行かれた(=いよいよ迂回(うかい)しながらエルサレムに向かわれます)。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁(=離婚)することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである(=まず結婚については、創世記の2-18~25で、離婚という概念が入りこむ余地のないお言葉で、神がお考えを示されています。ですが神は、人間が罪を犯す存在であるのを考慮された上で、申命記24-1で離婚をみとめているのです。彼らはこうした繊細な問題の箇所を選んで、あえてキリストに尋ねています)。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固(がんこ)なので、このような掟をモーセは書いたのだ(=神は離婚をよいものとはされていません。罪人である人間同士の結婚であればこそ、互いの信頼をたもてなくなるほどの罪を犯してしまうケース(=たとえば姦淫(かんいん)の罪など)が起こりうり、こうした場合にかぎり、離婚をみとめられていたのです)。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない(=これこそが神のお考えであるのです)。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる(=神のご立場からすれば、たとえ離婚したとしても、最初に一体になった妻が、その男の妻であると見なされているのだと思います。それゆえに他の女を妻にすれば、それは姦淫の罪を犯したことになるのです)。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」』

 

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・マルコによる福音書・10章の13~16節より

 

『イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤(いきどお)り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨(さまた)げてはならない。神の国(=神と人間が共に永遠に暮らす国のこと)はこのような者たち(=子供のように純粋な者たち)のものである。はっきり言っておく。子供のように(=子供のような素直さで)神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された』

 

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・マルコによる福音書・10章の17~22節より

 

『イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに(=父なる神のほかに)、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証(ぎしょう)するな、奪い取るな、父母を敬(うやま)え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈(いつく)しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施(ほどこ)しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである(=彼は天の富にではなく、世の富(=物理的な財産)にこころがとらわれていたということです)』

 

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・マルコによる福音書・10章の23~31節より

 

『イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた(=なぜ弟子たちがおどろいているかというと、彼らは、財産があるというそれ自体が、神からの祝福をたくさんうけている結果だと考えていたからです。当時のユダヤ人にはこうした考えが根づいていました)。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(=人は、自分が金持ちであると自覚しているだけで、それに執着してしまうほどに弱い存在だということ。それゆえに裕福な者が神の国に入ることのむずかしさを、こうした表現で言いあらわしています。テモテ1:6-9~10)。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った(=弟子たちは、神の祝福によって金持ちになれた彼らでさえが救われないのであれば、いったいだれが救われるというのかとおどろいています)。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ(=これは弟子たちの、では、だれが救われるのか、との問いをうけて、人間にはだれひとり救うことはできないが、神はなんでもできるので、信仰のある者たちを救うことになる、ということを述べられています)。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした(=自分たちはこうして信仰をもって、なにもかも捨ててきたのだから、どんな報いにあずかれるものなのかと遠まわしに述べています)。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音(=神からの善い知らせ)のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑(はたけ=自分が所有している物理的な財産)を捨てた者はだれでも(=これは弟子たちのことでもあります)、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け(=これは実際の家族や財産に百倍恵まれるということではなく、この世にありながらも、信仰者はすでに神の家族としてみなされ、また神からの祝福や霊的な財産をさずかっているということです)、後(のち)の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる(=ここでの先や後とは、順番の先、後ということではなく、ニュアンスとしては地位でいう高い低いをあらわしています。ですので、この世で人の上に立っていた多くの者が、神の国では仕える側になるということ。逆にこの世で仕える側にいた多くの者が、神の国では上に立つということ。言いかえるなら、自分を低くすることの謙虚さをもっていた者が、神の国では上に立てることをあらわしています)」』

 

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・マルコによる福音書・10章の32~34節より

 

『一行がエルサレム(=かねてからのイスラエルの中心地。キリストに敵対している祭司や律法学者の本拠地でもあります)へ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた(=これはおそらく、エルサレムに入るのは危険だということを、群衆も感じていたのだと思います。あまりに大勢の関心をひいているキリストは、ユダヤ人の指導者たちからは、煙(けむ)たがられている存在であり、事実ファリサイ派などはその命を狙っていました。また弟子たちにいたっては、キリストご自身から、キリストが殺される羽目になるのを聞かされていました)。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子(=キリスト)は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱(ぶじょく)し、唾(つば)をかけ、鞭打ったうえで殺す(=このようにユダヤ人である祭司長や律法学者が、キリストを罪人に仕立てあげ、実際に十字架にかけるのは異邦人であるローマ兵ということになります)。そして、人の子は三日の後に復活する)」』

 

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・マルコによる福音書・10章の35~41節より

ゼベダイの子ヤコブヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき(=キリストが、神の国の王座に座られるときに)、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください(=自分たちを、いまでいう大臣のような地位につかせてくださいということ)。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯(=これは人類が犯している罪に対しての、神の裁きを象徴している言葉です。言うなれば苦しみのさかずきのことです)を飲み、このわたしが受ける洗礼(=神からうける、十字架という苦しみのともなった洗礼、ということだと思います)を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと(=ここでの彼らは、これからうけられるキリストの苦しみの大きさや、またその苦しみがもつ意味をわからないままこのように答えています。そもそも彼らは、自分たちが高い地位につきたいとの思いがあって、できます、と述べているのです)、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる(=たしかに彼らもこれからのちに、殉教(じゅんきょう=信仰のために殺されること)したり、流刑になったり、苦しみのさかずきを飲むことになります。そしてそれらの苦しみをとおした洗礼もうけることになります)。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ(=すでに父なる神がお決めになっているということ)。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブヨハネのことで腹を立て始めた(=他の弟子たちも、二人と同じように高い地位につきたいとの思いがあるので、このように腹をたてています)』

 

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・マルコによる福音書・10章の42~45節より

 

『そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉(えら)い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では(=信仰者のすべてのあいだでは)、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子(=キリスト)は仕えられるためではなく仕えるために(=人々から仕えられるためではなく、人々に仕えるために)、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(=人々の罪の身代わりとして、命をささげるために来られたということ)」』

 

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・マルコによる福音書・10章の46~52節より

 

『一行はエリコの町(=エルサレムの東にある町)に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人(もうじん)が道端に座って物乞(ものご)いをしていた。ナザレ(=キリストの故郷)のイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ(=“ダビデの子” とは、当時のユダヤ人におけるメシア(救い主)の呼び名です。旧約聖書の中で、このダビデの子孫からメシアが誕生すると預言されていたのです。サムエル記 下7-12~16)、わたしを憐(あわ)れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが(=これは、物乞いでありながら、メシアに話しかけるなど身の丈(たけ)を知らず、邪魔をするなということだと思います)、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍(おど)り上がってイエスのところに来た(=彼にはキリストへの信仰があったので、すでに目をなおしてもらえることを確信して喜んでいます)。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った』

 

(次回は11章を見ていきたいと思います)