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マルコによる福音書の8章・全文(解き明かし)

2020年7月7日

 

『 マルコによる福音書の8章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは8章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・8章の1~10節より

 

『そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる(=ここでのキリストは、群衆から離れることをせずに、空腹の彼らをあわれんでおられます)。」弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑(くず)を集めると、七籠(かご)になった。およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方(=ガリラヤ湖の北西)に行かれた』

 

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・マルコによる福音書・8章の11~13節より

 

ファリサイ派(=キリストを敵視しているユダヤ教の一派)の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるし(=キリストが神からの使者であることの証拠)を求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆(なげ)いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう(=こう述べられていますが、キリストはこれまでに数多くの、神にしかできない奇跡(=病をなおしたり、死者を生きかえらせたり、パンを生みだしたり)をおこなってきました。これらに対して、単にこころを閉ざしているファリサイ派の人々が、認めようとしていないだけになります。彼らはこれら以上のことを求めていたのです)。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない(=これまでにしてきた以上の、だれの目にもあきらかな “しるし” はあたえられないということ。神からしたら、もう十分にしるしはあたえられているのです)。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた』

 

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・マルコによる福音書・8章の14~21節より

 

『弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種(=ここでの “パンだね” とは、ファリサイ派のいつわりの教えのことを指しています)とヘロデのパン種(=ヘロデのいつわりの教え。ヘロデとはローマの後ろ盾によってユダヤの王に在位している人物です)によく気をつけなさい」と戒(いまし)められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた(=弟子たちは、キリストからの、ファリサイ派ヘロデ王の教えに気をつけなさいとの言葉が理解できずに、食べ物のパンのことを注意されていると勘違いしてしまっています)。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂(さ)いたとき、集めたパンの屑(くず)でいっぱいになった籠(かご)は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた(=これはキリストが神であり、その神には不可能がないということを、あらためて弟子たちに諭されています)』

 

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・マルコによる福音書・8章の22~26節より

 

『一行はベトサイダ(=ガリラヤ湖の北東の町。この町は、キリストが数多くの奇跡をおこなってみせたにもかかわらず、悔い改めのこころを持たなかった町のことです。マタイ11-20~21)に着いた。人々が一人の盲人(もうじん)をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し(=キリストはこの盲人を人々から離し、一対一の関係をもたれています)、その目に唾(つば)をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが(=木のようにも見え、まだぼんやりしていますが)、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった(=キリストは一度でなおせる目を、意図的に二度にわけられ、なにかしらのメッセージをつたえておられます。もしかしたらあいまいにしか信仰をもてていなかったこの盲人に対して、一度目のうすぼんやりした状態がいまのあなたなのであって、二度目に鮮明に見えるようになったことをとおして、もっとわたしに全面的に信頼をよせてよいのだということを、つたえられたのかもしれません)。イエスは、「この村に入ってはいけない(=もしこの村の人々が、悔い改めのこころをもって、信仰をいだいていたなら、キリストはこのようなことを言わなかったものと思います。これはこの村が、悔い改めをもとうともしないことにもとづいているのではないでしょうか。もしかしたらキリストは、この村にもたらされることになる裁きを意識されていたのかもしれません。マタイ11-20~24)」と言って、その人を家に帰された』

 

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・マルコによる福音書・8章の27~30節より

 

『イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方(=イスラエルの北端)の方々(ほうぼう)の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ(=ヨハネはキリストが宣教をはじめる前から、悔い改めの洗礼を人々にさずけていた人物です)』と言っています。ほかに、『エリヤだ(=エリヤは旧約聖書に登場する預言者です)』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます(=このように多くの人が、キリストがメシア(=救い主)であることには気がついていません)。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロ(=十二人の弟子のうちの一人)が答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒(いまし)められた(=キリストが十字架にかかることで、人々を罪から解放してくださるのは、まだ先のことです。こうしたことからも、この時点では誤った憶測などが飛び交うのを防ぐために、ご自身がメシアであることを広めないようにと仰っているのだと思います)』

 

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・マルコによる福音書・8章の31~33節より

 

『それからイエスは、人の子(=キリスト)は必ず多くの苦しみを受け、長老(=イスラエルの部族制度を仕切る者)、祭司長(=神殿の行事を仕切る者)、律法学者たちから排斥(はいせき=おしのけ、しりぞけること)されて殺され(=十字架にかけられて殺されるということ)、三日の後(のち)に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた(=これが、この先に定められている神のご計画になります。完全に清いキリストをいけにえにすることで、わたしたちの罪をゆるしてくださるのです)。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた(=ペトロはキリストに向かって、そんなことがあってはならないと思いとどまらせようとしています。言いかえるなら、キリストの弟子という自分の立場を超えて、神の計画をさまたげようとしているのです)。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている(=実のところ神の計画を阻止しようとしていたのは、ペトロではなく、ペトロの中に入っていたサタンだったということ。ここではキリストが、そのサタンを叱責し、追い払っておられます)」』

 

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・マルコによる福音書・8章の34~38節より

 

『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後(あと)に従いたい者は、自分を捨て(=自分を神の所有物としてあけわたし)、自分の十字架を背負って(=神に全面的に服し、命をささげる覚悟を持って)、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は(=自分の命を優先する者は)、それを失うが、わたしのため、また福音(=神からの知らせ、教え)のために命を失う者は、それを救うのである(=自分の命よりもキリストのこと、またその教えを優先する者は、永遠の命にさずかれるということ)。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら(=わたしたちの命を管理されているのは神です。仮に全世界を手に入れた瞬間に、命を神にうばわれるようなことになったら)、何の得があろうか(=なんの得もないということ)。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(=どんな代価も支払えないということ)。神に背(そむ)いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は(=恥ずべきもの、避(さ)けるべきものとする者は)、人の子(=キリスト)もまた、父(=神)の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに(=再臨されるときに)、その者を恥じる(=神の国に招くことはしないということ)」』

 

(次回は9章を見ていきたいと思います)