聖書からの素敵な言葉を

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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の5章・全文(解き明かし)

2020年7月4日

 

『 マルコによる福音書の5章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは5章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・5章の1~10節より

 

『一行は、湖の向こう岸(=ガリラヤ湖の東、現ヨルダン)にあるゲラサ人(=異邦人のことです。聖書ではユダヤ人以外を異邦人と呼びます)の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚(けが)れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖(くさり)を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々(たびたび)足枷(あしかせ=足の自由をうばう刑具)や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕(くだ)いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた(=このように悪霊には、人を狂(くる)わせる力があります)。イエスを遠くから見ると(=悪霊にとって住みごこちのいい領域に、キリストが侵入してきたのを見ると)、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ(=悪霊は、このように人間とちがって、キリストが神であることを一瞬で見抜きます)。後生だから(ごしょう=お願いだから)、苦しめないでほしい(=悪霊はまた、神の圧倒的な力も知っています。神のみこころ一つで、底なしの淵(ふち)のような暗闇に、とじこめられるのを知っていたのです(ユダ1-6))。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン(=レギオンとは、ローマ軍の大勢でなす軍団のことです)。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った』

 

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・マルコによる福音書・5章の11~20節より

 

『ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚(けが)れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ(=これは底なしの淵のようなところに送られるぐらいなら、豚の中のほうがマシだということ)」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ(=ここでは豚がおぼれ死んだと書かれていますが、その後、悪霊たちがどうなったのかまでは、聖書にふれられていません。ただ少なくともキリストがこの場におられるあいだは、彼らはそう身動きがとれなかったものと思います)。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオン(=悪霊の大群のこと)に取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった(=悪霊がとりついていて、だれも近づけなかった人が、キリストの言葉一つで、正常になっていることに恐ろしさを感じた)。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした(=彼らは、神のなさったわざを知り、そのキリストが目の前にいるというのに、自分たちの生活を含めて、なにかしらを変えられるのを拒否したということ)。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたい(=弟子になりたい)と願った。イエスはそれを許さないで(=これはおそらく彼が異邦人であったために、彼を弟子にくわえてしまうと、ユダヤ人に対しての宣教に、影響がでてしまうのを考慮されたのだと思います。当時のユダヤ人は、神の民ではない異邦人を、敵視する傾向がありました)、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐(あわ)れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方(=現ヨルダン)に言い広め始めた。人々は皆驚いた』

 

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・マルコによる福音書・5章の21~34節より

 

『イエスが舟に乗って再び向こう岸に(=なじみのカファルナウム側に)渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長(=会堂でのユダヤ人の集会、礼拝などをとりしきる者)の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか(=これは、キリストはご自身にふれた女がだれであるのかわからないのではなく、こう尋ねることでその女と会話をし、彼女の信仰をひきだそうとされているのだと思います)」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか(=これは群衆にもみくちゃにされていたので、キリストはだれからもふれられて当然の状態にあったということ。しかしここでのキリストは、病を治してもらいたいとの意志をもって、ふれてきたのはだれかと尋ねられているのです)。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し(=信仰が、明確にひきだされたがゆえの行為です)、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」』

 

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・マルコによる福音書・5章の35~43節より

 

『イエスがまだ話して(=群衆に囲まれながら話して)おられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは(=会堂長であるヤイロの娘は)亡くなりました。もう、先生を(=キリストを)煩(わずら)わす(=手間をとらせる)には及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは(=弟子の三人のほかは)、だれもついて来ることをお許しにならなかった(=キリストは、十字架後の伝道のことを考えてのことでしょうか、とくにこの三人により多くの経験をあたえておられました)。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ(=キリストは、死から甦らせるのを前提で話されているので、一時的に眠っているにすぎないという意味でこう述べられています)。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム(=これはアラム語です)」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ(=キリストは神の福音を広めている一方で、こうした大衆の目がないところでなさったご自分の奇跡を、まわりに言い広めないようにと言われることがあります。わたしたちからしたら、キリストがなさる奇跡も神のみわざなのですから、どんどん広めればいいのにとも思ってしまいますが、キリストからしたらそういうものではなく、あくまで神の福音とご自分がなさる奇跡とはべつのものとして、線引きをされていたのかもしれません。キリストには、ご自分が目立とうとか、崇められようとか、そういったご自分の栄光を求める気持ちはなく、いつも父なる神の教えを説き、そして父の栄光を求めておられました(ヨハネ7-16~18)。もちろん大衆の前で病をなおされるときは、いやでもキリストが奇跡めいた人として広まってしまいますが、キリストの中には、神のしもべとして、人間につかえるためにつかわされたのだという使命(ヨハネ10-45、フィリピ2-6~8)に、ただ忠実であろうとしている、そういうお姿があるだけなのかもしれません。ですからキリストがだれにも知らせないようにと言うときには、本当にだれにも知らせなくてよいのです。すべては神のみこころにもとづいているのです)、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた』

 

(次回は6章を見ていきたいと思います)