聖書からの素敵な言葉を

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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の4章・全文(解き明かし)

2020年7月2日

 

『 マルコによる福音書の4章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは4章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・4章の1~9節より

 

『イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔(こはん=湖のほとり)にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った(=ここでの “たね” とは、“神の言葉” のことです)。蒔いている間に(=神の言葉をひろめているあいだに)、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨(いばら)の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた(=この種まきのたとえについては、今回の記事の4章13~20節のところでくわしく注釈をしています)』

 

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・マルコによる福音書・4章の10~12節より

 

『イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々(=キリストを信じようともしない人々)には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って(=神の元に立ち帰って)赦されることがない』ようになるためである(=聖書には多くの “たとえ” がでてきますが、それは、ある人にとっては認めたり、理解したりできないように、あえてそのように書かれているのです。聖書はときにとてもむずかしい書物ではありますが、神がわたしたちにあたえてくださっているのですから、わたしたちは感謝をもって、真摯に向き合っていくことが大切だと思います)」』

 

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・マルコによる福音書・4章の13~20節より

 

『また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉(みことば=神の言葉。聖書の言葉)が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタン(=上記では “鳥” と書かれています)が来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん=困難で苦しいこと)や迫害が起こると(=上記でいう、“日が昇ると焼けて” に相当)、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨(いばら)の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩(わずら)いや富(とみ)の誘惑、その他いろいろな欲望(=快楽への欲求など)が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実(=実とは、愛であったり、善いおこないであったり、より具体的には、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったことなど。ガラテヤ5-22~23)を結ぶのである」』

 

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・マルコによる福音書・4章の21~23節より

 

『また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは(=キリストが、神の国についてのみことばを語られるのは)、升(ます=四角い容器)の下や寝台(しんだい)の下に置くためだろうか。燭台(しょくだい=ろうそくを立てる台)の上に置くためではないか(=キリストが語るみことばは、人の目にふれないようにではなく、人の目につくように語られているということ)。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公(おおやけ)にならないものはない(=キリストは神の国についての秘密を、“たとえ” を用いて語り、あえてその内容を簡単につかめないようにされています。これは不信者には理解できないように、神の国の秘密を隠されているからです。しかしこれらは不信者に対して隠されているのであって、わたしたち信者にはその中身をあらわにすることができるし、そこに秘められている神の国の様子や、その到来までの神のご計画なども、知ることができるようになっているのです)。聞く耳のある者は聞きなさい(=だからキリストの言葉を注意して聞き、正しく受けとめなさい)」』

 

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・マルコによる福音書・4章の24~25節より

 

『また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい(=キリストがどんな意味をこめて語っているのかに注意しなさい)。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り与えられ(=“自分の量る秤で” とは、キリストから聞いた話を、どのように受けとめるのかということ。そしてその受けとめ方によって、それに応じた報いがあたえられるということ)、更にたくさん与えられる(=良い受けとめ方によって、さらにたくさんの報いがあたえられます。たとえば神からの愛や聖霊の満たしを受けたり、ますますみことばを理解できるようになったり、そうして神が望まれている生き方に、より近づいていけるようになります)。持っている人は更に与えられ(=神からのよい報いを受けている人は、さらにあたえられるという、よい循環に入っていくことになります)、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる(=キリストの言葉を軽く見たり、みくびることで理解がともなわない人は、みことばの教えからますます遠ざかり、あたえられていた神の恵みも失うことになります。こうして神の目から見る命や富を失い、ますます悪循環におちいっていくことになります)」』

 

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・マルコによる福音書・4章の26~29節より

 

『また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである(=神の国に入れる人たちは、次のような経過をたどります)。人が土に種を蒔いて(=人が神のみことばを信じるようになって)、夜昼(よるひる)、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが(=信仰が成長するが)、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり(=これは信仰者の努力などによるのではなく)、まず茎(くき)、次に穂(ほ)、そしてその穂には豊かな実ができる(=その本人によるのではなく、聖霊の力によって、徐々にキリストに似通った者に変えられていくということ。言いかえるなら神がそうしてくださるということです)。実が熟すと(=時がくると。これは総じて世のおわりがくるとということだと思います)、早速、鎌(かま)を入れる。収穫の時が(=神の国にまねきいれるときが)来たからである」』

 

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・マルコによる福音書・4章の30~32節より

 

『更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか(=信仰をもつ人たちによっておこっていく神の国を、どのようにたとえようか)。それは、からし種(からしだね=アブラナ科の種のこと)のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが(=実際、2000年前に使徒たちによっておこされた教会も、まさに小さいところから出発しました)、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る(=キリストを信じている者たちの群れは、どんどん大きくなっていきます。しかしここで “葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど” という言葉があります。これは、“鳥” が “サタン” をあらわしていますので、たとえ成長が順調であっても、よい面ばかりではないということです。成長の過程にまぎれて、必ずサタンが入りこんでくることになります。これは史実でも、ローマ帝国キリスト教を国教にして、多くの異教徒を一緒くたにキリスト教徒にしてしまい、教会全体を堕落させたのにも見られるとおりです。ここでのキリストは、信仰の足を引っぱるものの存在を警告なさっています)」』

 

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・マルコによる福音書・4章の33~34節より

 

『イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた(=キリストはなにもかもを、むずかしいたとえで話されたわけではありません。話し相手に応じて、工夫されていました。ですから耳をかたむけさえすれば、必ず得るものがあるように話してくださっていたのです)。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された(=この弟子たちが、キリストの十字架の死後に、伝道を開始することになります。また彼らがのこした福音書が、聖書におさめられることになりました。これによっていまのわたしたちは、神の霊のたすけもあって、世の “真理” を知ることができているのです)』

 

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・マルコによる福音書・4章の35~41節より

 

『その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕(こ)ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸(みずびた)しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも=船の後部)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ=波がなくなり、水面が静まること)になった(=このようにキリストは、自然に対しても権威をもっておられます)。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った(=この時点での弟子たちは、キリストが体をいやす奇跡などは目にしていましたが、キリストが神ご自身であるということまでは、まだ悟りきれていなかったのだと思います。それゆえにキリストが自然をも意のままに従わせてしまったことに、恐れをいだいています)』

 

(次回は5章を見ていきたいと思います)