聖書からの素敵な言葉を

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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の3章・全文(解き明かし)

2020年6月29日

 

『 マルコによる福音書の3章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは3章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・3章の1~6節より

 

『イエスはまた会堂(=礼拝をおこなう場所)にお入りになった。そこに片手の萎(な)えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日に(=労働をしてはならない日に)この人の病気をいやされるかどうか、注目していた(=キリストが、この人の腕を治したら、安息日に労働をしたと見なして、訴えようとしていたということ)。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか(=もちろん安息日であろうと、人に善いことをするのは、神のみこころに適っています。ここでの人々の考えこそが誤っているのです。しかし長年にわたって、神の律法を歪曲(わいきょく)してきた彼らには、こうした当たり前のことが見えていません。それゆえにキリストは、こう尋ねているわけです)。」彼らは黙っていた(=彼らには、キリストと議論しようという意志すらなく、ただひたすらキリストの言葉じりをとらえ、訴える口実をさがしていました)。そこで、イエスは怒(いか)って人々を見回し、彼らのかたくなな心(=善悪の区別も見失い、自分をただしいと思っている彼らの心)を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派(=これは歪曲した律法でもって民衆をとりしきっている一派のことです。そのためにこうしてキリストを訴えようと、監視しにきていました)の人々は出て行き、早速、ヘロデ派(=ヘロデは、ローマ皇帝の後ろ盾によってユダヤの王に在位している人物です。そのヘロデを支持している一派のことです)の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた(=このように聖書にくわしく、メシアの到来をまちわびていたはずの彼らが、神であり、メシアでもあるキリストを殺そうという流れになっています。ここに人間の傲慢(ごうまん)さというものが如実(にょじつ)にあらわれているように思います)』

 

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・マルコによる福音書・3章の7~12節より

 

『イエスは弟子たちと共に湖(=ガリラヤ湖)の方へ立ち去られた(=ファリサイ派、ヘロデ派の者たちが、キリストに殺意をいだきだしたために、一度彼らから距離をとられています。マタイ12-14~15)。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤエルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚(けが)れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ(=このように悪霊は、キリストが御子(みこ)であることに、はっきりと気がついています)。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒(いまし)められた(=キリストは、神の福音がただしく広まることは望まれていますが、悪霊などを発端にして、うわさが一人歩きをし、嘘の情報が広まっていくような事態は、望まれていませんでした。もしそうした嘘の情報が広まれば、余計なあらそいなども呼びこんでしまうかもしれません。キリストはこうしたお考えのもとで、言いふらさないようにと言われています。マタイ12-15~21、イザヤ42-1~4なども参照のこと)

 

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・マルコによる福音書・3章の13~19節より

 

『イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒(=重要な役割を果たしたキリストの弟子たち。この中のマタイやヨハネなどは、新約聖書の著者となっています)と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣(はけん)して宣教させ(=神の福音を人々につたえさせ)、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党(=ユダヤ教の一派)のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである(=このユダが、ユダヤ人の権力者たちに、キリストを売りわたすことになります)』

 

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・マルコによる福音書・3章の20~30節より

 

『イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内(みうち=家族や親類)の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである(=これはキリストが数々の奇跡をおこなっていることに対し、正気の人間ではないとのうわさが立っていたということ。これを聞きつけた身内の人たちが、世間体などを気にしたのでしょう、キリストをとりおさえにきています)。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブル(=サタンのこと)に取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭(かしら)の力(=サタンの力)で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう(=どうしてサタンが自分で自分を追いだすような真似(まね)をするだろう、ということ。文脈上では、どうしてサタンが、自分の仲間である悪霊たちを追いだす真似をするだろう、といったところでしょうか)。国が内輪(うちわ)で争えば(=仲間同士であらそえば)、その国は成り立たない。家が内輪で争えば(=家族同士であらそえば)、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず(=分裂して立ち行かず)、滅びてしまう。」また、まず強い人(=ここでの “強い人” には、サタンをあてはめればいいように思います)を縛り上げなければ、だれも、その人の家に(=サタンが支配しているところに)押し入って、家財道具を(=サタンの支配下(=悪影響下)にある人々を)奪い取ることはできない(=とりもどすことはできない)。まず縛ってから、その家を略奪するものだ(=まずサタンを縛ってから、その支配下にあった人々をとりかえすものだ。ここではサタンをあてはめましたが、いずれにせよキリストはこうした要領で、まず強い悪霊に目をとめられてから戦われているものと思います)。はっきり言っておく。人の子らが(=キリストを信じる人々が)犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者(=これはキリストがされたことをこころから理解していながら、その上で神であるキリストのご性質を否定し、悪霊の力でおこなっている、などと結論づける者たちのことです。そもそも人間に、キリストがしてくださったことを、真の意味で理解させてくれるのは、聖霊のはたらきによるものです。そのキリストがされた御業(みわざ)やただしさをこころから理解した上で、メシアとしてのご性質を拒否し、それに逆らってでも敵対していくのであれば、それは聖霊を冒涜していることになると、ここでは述べているのだと思います)は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである(=律法学者たちは、聖霊のはたらきを(=キリストがおこなった奇跡を)じかに目撃していながら、それを悪霊のしわざだと発言しました。このように神のはたらきを悪魔のものと見なし、聖霊を冒涜した彼らの罪は、永遠にゆるされないということです)』

 

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・マルコによる福音書・3章の31~35節より

 

『イエスの母(=聖霊によって身ごもり、キリストを産んだマリアのことです)と兄弟たち(=キリストの兄弟。マリアとその夫であるヨセフの子のことです)が来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた(=このようにキリストの家族は、大勢の人に加わってキリストの宣教を聞くことはせずに、むしろキリストを宣教の場から離そうとしています。この理由は、数々の奇跡をおこなっているキリストに対して、「あの男は気が変になっている」といったうわさが立っていたため、キリストが人前に立つのをやめさせたかったからになります)。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜(さが)しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、私の兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心(=神の教え、また神の願われること)を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ(=神のみこころをおこなう人こそが、キリストの本当の家族であるということ。キリストを信じる人たちには、聖霊がやどってくださいます。この聖霊が、わたしたちを善いおこないへと導いてくださるのです。たとえ身内であっても、キリストへの信仰がなく、みこころをおこなわないならば、神の家族になることはできないのです)」』

 

(次回は4章を見ていきたいと思います)