聖書からの素敵な言葉を

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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

マルコによる福音書の2章・全文(解き明かし)

2020年6月26日

 

『 マルコによる福音書の2章・全文(解き明かし) 』

 

(それでは2章を見ていきたいと思います)

 

・マルコによる福音書・2章の1~12節より

 

『数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家(=キリストご自身の家か、もしくは弟子のペトロの家)におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉(=神の言葉)を語っておられると、四人の男が中風(ちゅうぶ=手足にまひがあり寝たきり状態のこと)の人を運んで来た。しかし、群衆に阻(はば)まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床(とこ)をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰(=これはキリストを信じていたからこそ屋根に穴をあけて、病人をつり降ろしまでしたこと)を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者(=神の律法にくわしいが、それを歪曲(わいきょく)してしまっている者。ここではキリストが何者であるのかをさぐりにきていました。申命記13-13~15)が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜(ぼうとく)している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか(=彼らは、キリストを神とは認めていないので、キリストが “子よ、あなたの罪は赦される” と述べたことに対して、キリストを口だけの無礼な者として、神への冒涜だととらえています。しかし実際にはキリストは神なのですから、こう発言をする権限があったことになります)。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた(=キリストは人の心の考えを見抜くことができます)。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床(とこ)を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか(=ここは、『あなたの罪は赦される』と言うことのほうが、むずかしいことになるかと思います。なぜなら神は、人間の病を治されるときには、“代価” を要求されませんが、人間の罪を赦されるときには、キリストの十字架という “代価” を要求されました。ここに着目する以上、どちらを神が重く考えているかといえば、それは罪に関するもののほうであり、キリストが『あなたの罪は赦される』と言うときには、決して軽い気持ちでは話されていないものと思います。ただしこれは神のご立場から見た場合であって、人間的な視点に立てば、そうとはかぎりません。なぜなら難病の患者を、この場でいますぐ立たせるなどは到底できないからです。こうしたやる前から不可能とわかっている結果を求められるぐらいなら、よほど『あなたの罪は赦される』と言ってしまうことのほうが、簡単であるかもしれません。そもそも罪が赦されたことの証拠は、相手に示しようがないので、口先ではなんとでもいえてしまうからです。ただここで見誤ってはならないのは、中風の人を立たせることも、罪を赦すことも、このどちらもが神の領域であるということです)。人の子が(=キリストご自身が)地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう(=この場で示してみせよう)。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した(=このように人々からすれば、まず不可能だと思われていた中風を治してみせることで、だれの目にもわかりやすいかたちで、ご自身が神であることを示されています。こうすることで間接的に、罪をも赦すことができるというご自身の権威(=神としての権威)を、人々に知らしめたということです。これは罪が赦されることよりも、病気が一瞬で治ることのほうが困難だと考えていた人々にとっては、よりいっそうのおどろきと、説得力があったものと思います。ただこころのかたくなな律法学者たちは、今後ますますキリストと対立していく道をたどることになります)』

 

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・マルコによる福音書・2章の13~17節より

 

『イエスは、再び湖(=ガリラヤ湖)のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた(=福音を語られた)。そして通りがかりに、アルファイの子レビ(=キリストの弟子になるマタイのことです。彼は “マタイによる福音書” を書いた人物です)が収税所(しゅうぜいじょ=税金をとりたてるところ。当時、ユダヤ人が住んでいる地域は、ローマ帝国支配下にあり、そのためローマに収める税金を、マタイなどのユダヤ人が集めていました)に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った(=税をとりたてる安定した職を、この場で放棄して、キリストに従ったということ)。イエスがレビ(=マタイ)の家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人(ちょうぜいにん=税をとりたてる人)や罪人(=遊女(ゆうじょ)など)もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者(=ファリサイ派は、ユダヤ教(=旧約聖書を信じている)の一派で、多くの律法学者が属している。旧約聖書にくわしいため、本来メシア(=救い主)の到来には敏感であったはずの彼らですが、いざメシア(=キリスト)が目の前にあらわれてみると、そのキリストをメシアだとは認めずに、のちのち殺してしまおうとするほどの敵意をいだいていくことになります)は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った(=彼ら律法学者からすれば、もしキリストが神であるなら、その神が、彼らが見下している徴税人や罪人と食事をしていることが、どうしてものみこめなかった)。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人(=信仰のある者)を招くためではなく、罪人(=信仰のない者)を招くためである」』

 

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・マルコによる福音書・2章の18~20節より

 

ヨハネ(=洗礼者ヨハネのこと)の弟子たちとファリサイ派の人々は、断食(=食事を断つこと。これはレビ記16-29を参照のこと)していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに(=レビ記では、第七の月(=現在の9月から10月に相当)の十日に断食することになっています。ここでの彼らは御心(みこころ)に適ったものとして、定められた日以外にも断食をおこなっていました。ルカ18-12)、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿(はなむこ=これはキリストご自身をこうたとえている)が一緒にいるのに(=神であるキリストがこうして地上におりてこられ、一緒にいてくださっているのに)、婚礼の客は(=結婚式に呼ばれている客は。ここでは弟子たちのことです。彼らはこうしてキリストから弟子に選ばれ、食事をともにしているという、まさにお祝いごとの中にいるのです)断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない(=キリストが一緒にいてくださるのに、それを喜ばずにわざわざ食事を断って、身をいましめているときではない)。しかし、花婿が奪い取られる時が来る(=キリストが人々の罪のために、身代わりとして命を落とすときがくる。これはご自身の死を暗に示されています)。その日には、彼らは断食することになる(=彼らは悲しみに暮れ、断食することになる)』

 

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・マルコによる福音書・2章の21~22節より

 

『だれも、織りたての布から(=新しく知ることとなったキリストの教えから)布切れを取って(=その教えの一部を切りとって)、古い服に継ぎを当てたりはしない(=古い自分の考えや生き方に混ぜてはならない)。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる(=ますます生きづらくなり、わるい生き方になってしまう)。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない(=これも先と同じ。新たに知ったキリストの教えを、かつての考えや生き方に混ぜてはならない)。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる(=それではキリストの教えまでが活かせなくなる)。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ(=キリストの教えは、古い生き方をみな捨てた上で、心を新たにして受け入れるべきである)』

 

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・マルコによる福音書・2章の23~28節より

 

『ある安息日(=あんそくびとは、仕事を休み、神に礼拝を行う日のことで7日ごとにおとずれます。これは律法で定められていることです)に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘(つ)み始めた(=空腹だったのだと思います。もちろんこれは罪ではありません)。ファリサイ派(=キリストをみとめていないユダヤ教の一派)の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか(=彼らは、麦の穂をいくつか摘むことさえ、仕事とみなして禁じていました。これは律法に、細かいルールをつけ足し、彼らが民衆をとりしまる道具にしていたということです)」と言った。イエスは言われた。「ダビデ(=かつてのユダヤの王。この王は、ユダヤ教徒からも尊敬されていました)が、自分も供の者たち(=お供していた者たち)も、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか(=ダビデについて書かれている旧約聖書を、一度も読んだことがないのか。なお旧約聖書は、ユダヤ教聖典です)。アビアタルが大祭司(=神に関する行事をとりしきる者)であったとき、ダビデは神の家(=幕屋(まくや))に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供(そな)えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか(=ダビデは、神への信仰があった王です。その彼が、律法よりも、部下の命を守ることを優先し、神にそなえていたパンを、皆にわけあたえたということ。そして神はこのことをゆるされました。部下を守るという目的があったからです)。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(=これは、律法は人のためにあるのであって、人が律法のためにあるのではないということ)。だから、人の子(=キリスト)は安息日の主(しゅ)でもある(=本来、律法を正しく管理して、その上にいるのが人間です。そしてその人間の上におられるのが神です。当然神は、律法よりも上の存在であり(=そもそも律法は神がつくられました)、律法に対しての主権を持っておられます。ここではこうしたことを見失っているファリサイ派の人々に、キリストがこう表現することでつたえておられます)」』

 

(次回は3章を見ていきたいと思います)