聖書からの素敵な言葉を

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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

キリストの十字架の死を、前もって定めておられた神について

2020年6月20日

 

『 キリストの十字架の死を、前もって定めておられた神について 』

 

(以下は、イザヤ書からの抜粋です。この書はユダヤ人であるイザヤが、いまから2700年ほど前(=すなわちキリストが地上にあらわれるよりも、さらに700年ほど前)に書きのこしたものです。ですからこの書の中で、地上にあらわれたキリストについてふれている箇所は、預言になっているということです。どうかみなさん、ほんとうの神がいるということを、下記をとおして知っていただければと思います)

 

イザヤ書・53章の1~10節より(=なおここは詩のような体裁で書かれていますので、1節ずつ行間をとって注釈をつけていくことにします)

 

『わたしたちの聞いたことを(=自分たちが殺したあのキリストが、よりによって神の御子(みこ)、メシアであったということを)、誰が信じえようか。主は御腕(みうで)の力を誰に示されたことがあろうか(=かつてエジプトからイスラエルの民を救った、神の偉大な力は、これまでだれにあらわされたことがあったというだろうか。これは要するに、自分たちがキリストの再臨をその目で見るまでは、あのキリストに神の力があたえられていたことに、気づかないということです。実際いまのユダヤ人の多くは、キリストに対して目がひらかれておらず、まだだれが救い主(=メシア)であるのかわからない状態にあるのです)。

 

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝(わかえだ)のように、この人は主の前に育った(=キリストは、決して恵まれていない環境の中でお育ちになりました)。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない(=なにか特別な容姿をしていたわけでもありません)。

 

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている(=キリストは奇跡をおこなわれても、ときには崖から落とされそうになったり、悪霊がとりついているとののしられたり、こころの痛みも経験されていました。キリストは、人間がかかえる病には、肉体的なものとこころのものとがあることを、熟知しておられました)。彼はわたしたちに顔を隠し(=キリストにはおごりたかぶるところがなく、信仰も無理におしつけることがありませんでした)、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 

彼が担(にな)ったのはわたしたちの病(=人間の肉体的、また精神的な病)、彼が負ったのはわたしたちの痛み(=わたしたちがうけるべき裁き)であったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから(=キリスト自身に罪があり、その罪のゆえに裁かれたから)、彼は苦しんでいるのだ、と。

 

彼が刺し貫かれたのは(=十字架の上で釘(くぎ)を打たれたのは)、わたしたちの背きのため(=わたしたちが神から離れたため)であり、彼が打ち砕(くだ)かれたのは、わたしたちの咎(とが=罪)のためであった。彼の受けた懲(こ)らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(=罪に対する裁きから解放され、真の自由を得た)。

 

わたしたちは羊の群れ、道を誤り(=神に目を向けなくなり)、それぞれの方角に(=勝手気ままな方角に)向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に(=キリストに)負わせられた。

 

苦役(くえき)を課せられて(=キリストは十字架の前に、鞭打ちの拷問もお受けになりました)、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(=無実でありながら反論一つされませんでした)。

 

捕(と)らえられ、裁きを受けて(=十字架の刑を受けて)、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民(=イスラエルの民)の背き(=罪)のゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地(=わたしたちが生きているこの地)から断たれたことを。

 

彼は不法(=罪)を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者(=裕福な者)と共に葬(ほうむ)られた(=キリストは罪人として死を迎えたのですから、本来立派な墓にはいれる境遇にはありませんでした。しかし実際には、ユダヤ人議会のメンバーで、裕福だったヨセフという人物があらわれて、自分用につくっていた墓に、キリストをほうむることになったのです。なおこのユダヤ人議会のメンバーたちが、キリストを罪人に仕立てあげたのですから、ヨセフは彼らからしたら裏切り者にあたります。その彼がかねてよりつくっていた墓ということですから、その墓のある一帯には、やはり裕福な、他のユダヤ人議会のメンバーたちも墓をつくっていたのだと思います。その墓の一つに、場違いのようにしてキリストがほうむられることを、神はここで預言しているのです)。

 

病に苦しむこの人を(=人類の罪に対して胸を痛め、かつ一つの罪も犯したことのないキリストを)打ち砕こうと主は望まれ(=全人類の罪のいけにえとしてふさわしいものとされ)、彼は(=キリストは)自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が(=信仰のあるユダヤ人、また信仰のある世界中の人々が)末永く続くのを見る。主の望まれることは(=永遠の御国(みくに)の到来は)、彼の手(=キリストの手)によって成し遂げられる』

 

(以上が、イザヤ書に記されている、キリストの十字架に関するものです。なお本文は、新共同訳から引用をしています。詩のような体裁で書かれているため、わたしが言葉をおぎなって、解釈をしている(=意味をとおしている)部分があります。これらはもちろんそれが絶対にただしいというものではありませんし、その点はご理解いただければと思います。それではどうか一人でも多くの方が、聖書のみことばを受けいれて、神の家族に加わることができますように)