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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

キリストがお語りになった御言葉(その三:ヨハネによる福音書からの抜粋)

2020年5月29日

 

『 キリストがお語りになった御言葉(その三:ヨハネによる福音書からの抜粋) 』

 

(以下には、キリストがお語りになった御言葉がつづられています。前回のルカによる福音書では、“教訓” というテーマでとりあげましたので、今回はキリストが語られた “救いに関するもの” というテーマで、わたしなりにいくつかとりだしてみたいと思います。なお御言葉はなるべく短いものを選び、22箇所から抜粋しております)

 

「人は、新たに生まれなければ(=信仰をいだくことで、キリストから聖霊(=神の霊)をさずかることがなければ)、神の国を見ることはできない」(3:3)

 

「神は、その独り子(=キリスト)をお与えになった(=神は、人間が犯した罪の身代わり、そのいけにえとして(=十字架で血をながさせる神へのささげものとして)、キリストをこの世に遣わしてくださいました)ほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子(みこ=キリスト)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)

 

「わたしが与える水を飲む者(=この水は、実際の飲み水のことではありません。信仰をいだくことによって、キリストから聖霊をさずかることを、このようにたとえています)は決して渇(かわ)かない。わたしが与える水(=聖霊)はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:14)

 

「わたしの言葉を聞いて、わたし(=子なるキリスト)をお遣わしになった方(=父なる神)を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(5:24)

 

「神がお遣わしになった者(=キリスト)を信じること、それが神の業である(=わたしたちがキリストを信じるようになることそのものが、神のわざだということ)」(6:29)

 

「わたしをお遣わしになった方の御心(みこころ)とは、わたしに与えてくださった人(=聖書を信じている者、キリストを信じている者)を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」

(6:39)

 

「信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである」(6:47-48)

 

「命を与えるのは“霊(=神の霊)”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(6:63)

 

「父(=父なる神)からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(6:65)

 

「この方(=父なる神)の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分を(=キリストを)お遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義(=守るべき道からはずれること)がない」(7:17-18)

 

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである(=このひつじかいが、キリストのことです)。門番(=門の番をする人)は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける(=このひつじが、信仰者のことです)。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(10:1-5)

 

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる(=これは世界中に、キリストを信じるようになる人々がいるということ)。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)

 

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは(=信仰者たちは)、すべてのものより偉大(=大切)であり、だれも父の手から奪うことはできない」(10:28-29)

 

「わたしの行く所に(=天の国に)、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(13:36)

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(=父なる神)のもとに行くことができない」(14:6)

 

「わたしは父にお願いしよう(=これはキリストが十字架で死に、その後、天に昇られて以降のことを慮(おもんぱか)って、こう述べられています)。父は別の弁護者(=聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:16-17)

 

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む(=このように父、子(=キリスト)、聖霊という三位一体(さんみいったい)の神が、わたしたちの内に住んでくださいます)」(14:23)

 

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既(すで)に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(15:3-4)

 

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)

 

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(17:22-23)

 

「わたしの国(=神の国)は、この世には属していない」(18:36)

 

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)

 

(以上、ヨハネによる福音書からの御言葉の抜粋でした。なお上記において、“三位一体の神” という言葉をつかわせていただきました。これは聖書の神が、唯一でありながらも、“父なる神”、“子なるキリスト”、“神の霊である聖霊”、という三つの位格(=ただしその本質においては同一)から存在されているためです。もっと簡単にいいますと、父なる神も神、子なるキリストも神、聖霊も神というように、この三つの位格において、一つの神として存在されているということです。それをここでは“三位一体の神” という言葉で言いあらわしております)