聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

聖書における罪から抜けだしていくために(七)

2020年4月27日

 

『 聖書における罪から抜けだしていくために(七) 』

 

(それでは「6」をみていきたいと思います)

 

6.それなら信仰によって、いかなる罪も赦(ゆる)されているのだから、これまでと同じように罪を犯しつづけてもいいものなのか。

 

・ローマの信徒への手紙・6章の1~2節より(=以下は、使徒パウロが書いたものです)

『では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか(=人々が犯してきたどんなに多くの罪も、キリストへの信仰によって無罪とされて、救われていることはすでに確定しています。そうであるなら、これから先も罪を犯しつづけて、それらを見逃してもらい、より神からの深い恵みにあずかればいいのではないか、とパウロがあえて問いかけています)。決してそうではない(=パウロはこうした都合のいい考えをはっきりと否定しています)。罪に対して死んだわたしたち(=聖書の教えでは、キリストがわたしたちのすべての罪を背負って十字架で死なれたときに、同時にまた、罪を犯してきた信仰に目覚める前のわたしたちも、キリストとともに十字架にかかって死んだのだ、ということを説いています(=くわしくは「7」でふれます)。つまり救いにあずかれておらず、罪に支配されていた当時のわたしたちは、すでに死んでいるのだということを、ここでは “罪に対して死んだわたしたち” と言いあらわしています)が、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう(=キリストの十字架とともに罪に支配されていたわたしたちは死に、すでにいかなる罪との関係も断ち切られているというのに、どうしていまなお罪の中に生きようとし、また実際に罪を犯しつづけていくなどということができるでしょうか。いや、そんなことはできません、とパウロが否定しています)』

 

・ローマの信徒への手紙・6章の12~13節より

『従って、あなたがたの死ぬべき体(=人間は、この体のままでは神の国に入れませんので、いまある体は一度朽(く)ちることになります)を罪に支配させて(=罪の奴隷にして)、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体(=体全体)を不義(=神の教えに反すること)のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者(=わたしたちはキリストとともに十字架の上で死に、そしてそこから神のために生きる者として、復活も経験しているのです(=くわしくは「7」でふれます))として神に献げ、また、五体を義(=神に正しいとされること)のための道具として神に献げなさい』

 

・エフェソの信徒への手紙・4章の30節~5章の5節より

『あなたがたは、聖霊(=神の霊)により、贖(あがな)いの日に(=携挙(けいきょ)のときに)対して保証(=救いの保証が)されているのです。無慈悲(むじひ=あわれむ気持が欠けていること)、憤り(いきどおり=腹を立てること)、怒り、わめき、そしり(=人のことを悪く言うこと)などすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださった(=神はわたしたちの罪を、キリストの十字架の犠牲によってゆるしてくださいました)ように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣(なら)う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえ(=十字架でのいけにえ)としてわたしたちのために神に献(ささ)げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなこと(=性に対して乱れたこと)やいろいろの汚(けが)れたこと、あるいは貪欲なこと(どんよく=欲が深いこと)を口にしてはなりません。卑(ひ)わいな(=わいせつな)言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者(=一言でいうなら、聖書の神以外のものに心が向かっている人のことです)は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい』

 

(このように、わたしたちは救いにあずかれているからといって、罪を犯していいというわけではありません。わたしたちは信仰によって、神の家族とされているのですから、罪から切り離された者として、罪を断っていかなければならないのです。それでは次回は「7」をみていきたいと思います)