聖書からの素敵な言葉を

聖書からの素敵な言葉を(ブログ)

聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

聖書における罪から抜けだしていくために(六)

2020年4月25日

 

『 聖書における罪から抜けだしていくために(六) 』

 

(それでは「5」をみていきたいと思います)

 

5.では、人間のだれもが裁(さば)かれて、火の池に入れられるのか。

 

・ローマの信徒への手紙・5章の16節より

『裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが(=神は、人間が犯したどんな小さな罪も見逃されることがありません)、恵みが働くときには(=しかしキリストへの信仰がある場合には)、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです(=このように信仰者の罪は、たとえどんなに多くても、それが裁かれることはありません。わたしたちを無罪のものとするために、キリストが身代わりになって、神のさばきを十字架で受けてくださったのです)』

 

イザヤ書・53章の5節より

『彼が(=キリストが)刺し貫(つらぬ)かれたのは、わたしたちの背き(=神へのそむき)のためであり、彼が打ち砕(くだ)かれたのは、わたしたちの咎(とが=罪)のためであった。彼の受けた懲(こ)らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(=わたしたちの罪はあがなわれた)』

 

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(以下には、なぜキリストが十字架にかけられることで、神が、わたしたちの罪を赦(ゆる)してくださったのかが、つづられています。これは神が、旧約聖書の時代から(=キリストが人間としてお生まれになる前から)、定めていた掟(おきて=ルール)にあります。それは人が犯した罪を、いけにえとしてささげる動物に移しかえることで(=罪のさばきを身代わりに受けさせることで)、神の赦しが得られるというものです。神は、“いけにえ” というルールに則(のっと)り、罪を犯すことがなく、けがれを知らない動物に、罪の代価を支払わせたということです。これがそのまま新約聖書にあるように、いけにえのささげものとして、キリストが選ばれたということです。キリストは人類において、ただお一人、罪を犯しませんでしたので、わたしたちの罪の代価になりえたのです)

 

<まず旧約時代における罪をあがなう方法>

レビ記・1章の3~5節より

『牛を焼き尽くす献(ささ)げ物とする場合には、無傷の雄(おす)をささげる。奉納者(=罪を犯して牛をささげる者)は主に(=神に)受け入れられるよう、臨在の(りんざい=神が存在される)幕屋(まくや)の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖(あがな)う儀式を行うものとして受け入れられる。奉納者がその牛を主の御前(みまえ)で屠(ほふ)ると、アロンの子らである祭司(さいし=神の行事をつかさどる者)たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる(=このように罪を知らない動物に “血” をながさせることで、神の赦しが得られるということです)』

 

<次に新約時代における罪をあがなう方法>

・ペトロの手紙 一・1章の18~19節より

『知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来(=先祖代々)のむなしい生活から贖(あがな)われたのは(=先祖からなにかしらの罪を犯しつづけてきた生活から、つぐないをして救われたのは)、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚(けが)れのない小羊(=こひつじは、いけにえとなりえる動物です)のようなキリストの尊(とうと)い血(=十字架でながしてくださった血)によるのです(=わたしたちの罪のつぐないとして、キリストがいけにえとなってくださいました。このことのゆえにキリストは、わたしたちのメシア(=救い主)であるのです)』

 

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(このように、キリストが人類を救うために、十字架で血をながしてくださいました。これを信じる人には、神の恵みがあたえられ、神は、その人が犯したすべての罪を無罪のものとしてくださるのです。しかしキリストを信じない人、また上記のような話にふれたことがない人たちには、神のさばきがくだることになります。ですから、わたしたちは一人でも多くの方に、キリストがしてくださったことを、ひろめていかなければならないのです。それでは次回は「6」をみていきたいと思います)