聖書からの素敵な言葉を

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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

聖書における罪から抜けだしていくために(一)

2020年4月17日

 

『 聖書における罪から抜けだしていくために(一) 』

 

(今回は、聖書が定めている罪からなかなか離れられない、そうした自分自身へのいましめをこめた記事となっております。罪に対してどのような心構え、あり方でいればいいのかを、しっかりと学んでいきたいと思います)

 

・以下が、これから記事にしていく順番になります。一つ一つの記事は、聖書の言葉を引用しながらの長いものになりますので、まず要点を問題形式にしながら、短い答えとともにまとめておくことにします。

 

1.そもそも人間にとって、どういうことが罪にあたるのか。

答え:神の存在を認めていない生き方そのものが罪です。また仮に心の中でいだくだけであっても、神の教えに反するあらゆることが、神には罪と見なされます。

 

2.では、人間が罪を犯した先でむかえる結末とは、どういうものなのか。

答え:これは最後の審判(=キリストが再臨されてから1000年後にもうけられている審判)のときに、生前に犯した罪の度合いに応じて、裁(さば)かれることになります。これはとても恐いことですが、永遠の火の池に入れられるということです。ただしこれはキリストへの信仰がない人たちにかぎります。

 

3.では、「2」のような恐ろしい結末をもたらす罪を、またこうまで罪はわるいものなのだと知りながらも、どうしてわたしたちは、生活の中で罪から離れられず、罪を犯しつづけてしまうのか。

答え:これは人間が、人類で最初に罪を犯したアダムの性質を、受け継いでしまっているためです。これを原罪(げんざい)といいます。この原罪のために、だれもが罪を犯してしまうのです。

 

4.では、人間の精神力などで、自力で罪を犯さずにしていけるものなのか。

答え:自力で解決することはできません。それほどに原罪の問題は根深いので、精神力などでたたかっていくことの限界や、自分では自分を救えないことをみとめ、一度敗北宣言をしてしまうこと。

 

5.では、人間のだれもが裁かれて、火の池に入れられるのか。

答え:これはキリストへの信仰がある人にかぎり、まぬがれることができます。それがわたしたちの罪の身代わりに、十字架にかかられたキリストがしてくださったことなのです。信仰のある人たちの罪は、キリストによってあがなわれて(=無罪のものとされて)いるのです。

 

6.それなら信仰によって、いかなる罪も赦(ゆる)されているのだから、これまでと同じように罪を犯しつづけてもいいものなのか。

答え:いいえ、これはちがいます。わたしたちは信仰によって、神の家族とされているのですから、罪から切り離された者として、罪を断っていかなければならないのです。

 

7.それにもかかわらず、罪を犯してしまう場合はどうすればいいのか。

答え:これにはより詳しい聖書への理解が必要です。まず、

・かつての罪の奴隷状態にあった、古い自分は(=すなわち信仰をもつ前の自分は)、キリストとともに十字架にかけられて、すでに死んだということ。

・そしてキリストが死から復活させられたように、わたしたちも聖霊(=神の霊)をさずかることで復活し、神のために生きる者として、新しく生まれ変わっているということ。

・この新生にあずかったわたしたちは、霊において、キリストと一体になっているということ。

・そして信仰者のだれもが、聖霊によって導かれ、日々キリストに似通った者へと変えられていっているということ。

と、これらのことを受けとめ、神に心からの信頼をよせていく必要があります。

 

8.もし、それでも罪を犯してしまう場合はどうすればいいのか。

答え:その都度、神に罪を告白し、悔い改めていく必要があります。また神に、自分が罪を犯さなくなるように導いてください、と祈っていく必要があります。

 

9.それでもまだ、罪を犯してしまう場合はどうすればいいのか。

答え:日々、神が、わたしたちをとりなしていること、そして神のご計画のもと、携挙(けいきょ)がもたらされるときまでに、一人一人における役割を完成させてくださることを信じる必要があります。そしてその日を迎えたなら、わたしたちは永遠の命とともに、もう二度と罪を犯さない者へと変えられます。この希望を胸に、そのときまでつづく原罪とのたたかいの中で、神を信頼して、祈りつづけていく必要があるのです。

 

(それでは次回より、一つ一つの項目をとりあげていきたいと思います)