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聖書を手にされたことのない方のために、わかりやすくを心がけて、ブログを書かせていただいております。

ヨハネの黙示録(七)・ラオディキヤにある教会にあてた手紙について

2020年4月8日

 

ヨハネの黙示録(七)・ラオディキヤにある教会にあてた手紙について 』

 

(以下は、キリストがラオディキヤの教会にあてた手紙になっています。なおラオディキヤには、“人々が支配する” という意味があります。このラオディキヤの教会は、20世紀~いま現在の、人間が、キリストを外にしめだしてしまっている教会の “型” になっていますので、俗にいう背教(はいきょう=正しい教理にそむくこと)の教会が、現在には多く見られるということです。ここでのキリストは、このことを叱責されています。ちなみに七つの教会のうちで、賞賛がないのはこの教会だけになります。それほどに悪い教会だということです。なおこれ以降につづく八番目の教会はありませんので、この教会時代のおわりに、携挙(けいきょ)がもたらされることになります。わたしたちはまさに世のおわりの時代に生きているのです)

ヨハネの黙示録・3章の14~22節より

『ラオディキアにある教会の天使(=教会を守っている天使のこと。ただ、以下にでてくる、“あなた” という言葉は、この天使というよりも、この教会の人たちがなす共同体に対して語りかけているものになっています)にこう書き送れ。『アーメンである方(=まことの神であるキリストのことです)、誠実で真実な証人(=真実を証明する者)、神に創造された万物の源である方(=天と地を含めて万物を創造し、それを維持されているのはキリストです)が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを(=おこないがともなわず、名ばかりの教会員であるのを)知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない(=キリストに敵対しているか、あるいは熱心であるか、そのどちらでもない)。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい(=これはキリストに対して、無関心の状態にあることが一番わるいということ。まだ敵対しているほうが、その人はキリストを意識している状態にあるので、回心する機会や、悔い改めの機会に遭遇するチャンスが高いということだと思います)。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので(=ただなんとなく、惰性(だせい)で教会に属している状態。要するに自分では救われていると思いこんでいるが、実は救われていない人たちのことです)、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている(=距離を置こうとしている)。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない(=これは教会でいうなら、教会の建物を立派にすることや、だれでもいいから教会の一員にひきいれ、献金をさせることや、これらが実現していることに対して満足してしまっているということ。また個人でいうなら、神に仕えるために聖書を学んだり、悔い改めたり、心からの祈りをささげたりしていないにもかかわらず、自分は救われていると満足をおぼえてしまっているということ)』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者(=キリストに対して目のひらかれていない者)、裸の者であることが分かっていない(=このはだかの人々は、キリストから白い衣をさずかれる状態にないので、現時点では救われていないということです)。そこで、あなたに勧める。裕福になるように(=物理的にではなく霊的な意味において裕福になるように。神とのつながりが深まるように)、火で精錬された金(きん)を(=試練に絶えうる信仰によってさずけられる神の栄光を(ペトロ一:1-7))わたしから買うがよい(=うけとるがよい)。裸の恥(=罪があがなわれておらず、罪の奴隷にある状態)をさらさないように、身に着ける白い衣を買い(=神からの救い、義をうけとり)、また、見える(=世の中の真理に対して目がひらかれる)ようになるために、目に塗る薬を買うがよい(=霊的な意味での洞察力をうけとるがよい)。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする(=キリストはこの教会に対しても、救おうとのご意志で叱責されています)。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている(=これは現状では、キリストを外にしめだしてしまっている教会の状態にあるということです。キリストとつながっていると思いこんでいるその信仰は、実際にはキリストとの交わりをもつにはいたれていないということ)。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう(=キリストはすでにきてくださっているので、あとは一人一人が応答さえすれば、交わりをもってくださるということ)。勝利を得る者(=信仰をもって歩む者)を、わたしは自分の座に共に座らせよう(=これは千年王国での、国を統治する側の座につくことの約束です(黙示録20-4))。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会(=すべての教会のこと。つまりいまのわたしたちが属している教会にも向けられているということです)に告げることを聞くがよい」』

 

(これでひと通り、七つの教会についての注釈がおわりました。ここを学んで私なりに一つの確信をいだきましたが、聖書の黙示録・17章にでてくる大淫婦(だいいんぷ)、大バビロンとは、現時点においてはイタリアのローマにあるバチカン(=ローマ教皇がトップに立つカトリックの総本山(そうほんざん=中心部))のことで、まずまちがいありません(※これについては後日、あらためて記事にしていきたいと思います)。みなさんに知っていただきたいのは、いまの世の中はサタン(=悪魔)の支配下にあり(ヨハネの手紙5-19)、世界中の人々が、悪に対して悪と見やぶれない、サタンにまどわされている状態にあるということです。こうしたサタンの支配から脱けだし、一人でも多くの方に、神の家族に加わっていただきたいと思います。いずれにしましても、この七つの教会のところは、私自身にとっても本当に価値ある学びとなりました。わたしたちの神であるキリストは、小さな教会であっても、貧しい教会であっても、愛をもってみことばを学び、それらみことばに忠実であろうとする人たちの内に、どんなときでもついてくださっています。そしてもう一つおさえておきたいのは、わたしたちはいま七番目の、最後の教会の時代に生きているということです。このあとにつづく教会の時代はもうありません。この後は携挙を経て、世の苦しみのとき、艱難(かんなん)時代へと入っていくことになります。わたしたちは、まさに世のおわりのときに生きているのです)